韓鶴子女史み言アーカイブ

韓鶴子女史が語られた至宝のメッセージ

人間の行くべき生涯路程⑤

回復すべき神様と人間の本然の関係

 御来場の皆様! 今日、ひと時を生きていく私たちの人生の道というものは、平坦
へいたんな道ではありません。それは人間が堕落したからです。私たち人間は、堕落の因縁をもって生まれたがゆえに、その堕落によって生じた怨恨の過程を、どうせ、いつかは乗り越えなければならない運命をもって生まれました。数千、数万年の歴史過程を経ても、それを越えなければ、その恨(ハン)の道は、私たちの前に永遠に残るようになるのです。

 エデンの園でアダムとエバが堕落したその瞬間から、私たち人間は不幸の要件をもって出発しました。ですから、人類が幸福の世界に戻るためには、必ず不幸の世界を退けて進まなければなりません。そうでなくては、誰も幸福な世界に戻ることができません。人類始祖が堕落したことによって、人間だけが不幸になったのではなく、神様までも共に不幸になりました。

 私たち人間が生涯を捧げて生きていく一つの目的は、理想世界の実現だけではありません。それよりまず、生命の根源であられる神様の積もりに積もった悲しみと悲痛さを、どのように打開するかということが、私たちの生涯の目的です。したがって人類が幸福な所を訪ねるとき、神様も幸福になるのです。このように神様や人間は、同じ立場に立って一つの目的を指向して、歴史過程を経ながら今まで歩んできました。神様は、アダムとエバを失うことによって、険しい道のうちで最も険しく、世の中の誰も願わない、また行きたがらない道を歩んでこられたのです。人間も、やはり堕落で残った、この避けることのできない運命の道を、救いの1日を願ってやって来たのです。

 神様に対して人間は、「その方の息子、娘になりたい」ということが最高の願いです。なぜなら、父母と最も近い立場は親子関係であるからです。「私」という人は、父母の愛と生命が集中したところ、父母の理想を代表した立場に生まれました。ところが「愛」とか「理想」とかいう言葉は、1人について言う言葉ではありません。「生命」も1人で独断的に出てくるのではなく、連結された立場で出てくるのです。したがって、神様が人をお造りになるとき、神様の愛と生命と理想の対象として造られたのです。これは、驚くべき偉大なことです。

 自分がいなければ、父母の愛は現れることができません。父母の愛と生命と理想は、自分と共に関係しているのです。自分は、父母の愛と生命と理想の結実体です。ですから息子の立場は、最高に価値のある立場です。神様と人類は、親子の関係であるからです。父母と自分が一つのところから共に出発したという事実は、驚くべきことです。父母の愛は自分の愛であり、父母の生命は自分の生命であり、父母の理想は自分の理想として決定づけることができるのです。ですから父母は、子女を見つめるとき、「これは自分の愛する息子、娘だ」と言います。これは自分の愛と、自分の生命と、自分の理想の実体だということを父母は感じて悟り、知っています。愛する息子、娘は1日だけ会わなくても、会いたいし、今見ても、またすぐ見たいというようなものなのです。それは、どんなに離そうとしても離すことができない、骨の中の骨であり、肉の中の肉です。いなければ死んでしまうくらい、そこにはすべての理想がかかっているのです。

 今日、堕落によって真なる愛と、真なる生命と、真なる理想をもたない人間世界に生まれた父母も、そのように子供を愛することができるのに、そのような父母の主体であられる神様は、それよりもっと愛するというのです。

 本来、堕落前のアダムとエバは、神様の直系の息子、娘として神様の血筋を引く者です。アダムとエバは、天上天国と地上天国を受け継ぐことのできる王子、王女だったのです。王子、王女であると同時に、無形の神様であられ、主体であられる神様の前に対象として造られた存在であるがゆえに、神様の前に愛を受けることのできる実体であり、無形の神様が実体として顕現したものです。

 神様の息子の特権は、その方は自分のものであり、その方がもっているすべても自分のものだというものです。神様の愛までも、生命までも、理想までも自分のものです。このように驚くべき偉大な本然の価値を、人間は再び回復しなければなりません。

 したがって、神様が主体的愛で永生するなら、その愛の相対も永生しなければなりません。神様の愛と一つになれば、神様が自分になるのです。堕落していないアダムとエバの体は、神様が住むことのできる家です。アダムとエバが神様を心の中心として真の愛で永遠に統一された愛の体、生命体、血統体になっていたならば、今日私たちの心と体は闘いません。


韓鶴子総裁講演集」より