韓鶴子女史み言アーカイブ

韓鶴子女史が語られた至宝のメッセージ

人間の行くべき生涯路程②

真の愛は宇宙創造の起源

 したがって、あらゆる存在が互いにみな喜ぶことのできるテーマは、愛以外にはないというのです。その愛とは、大宇宙が歓迎することのできる真の愛です。神様も、天使世界も、万物も、そしてすべての人が公認できる、そのような愛なのです。愛というふろしきを持ってきてかぶせておけば、みなその中から抜け出そうとはしません。このような点から見るとき、宇宙創造の起源や生命の発源地とは、正に真の愛なのです。

 人間が宇宙を愛する境地に入れば、宇宙のすべての門が開くのを経験することができます。また、自分が今この空間に極めて小さなものとして存在しているとしても、愛を中心としては極めて大きな存在と共同的で共通的な、そして同等かつ対等な相対的権限をもつようになります。その極めて大きな存在が絶対的な神様ならば、私は愛の権威によって、その絶対的な神様の相対的な立場に上がることができるのです。神様の属性が愛であるからです。

 したがって神様の愛の公約を立てておいて、その公約の中に存在するようになれば、宇宙のどこに行こうと自由なのです。神様の愛に酔えば、砂粒一つを1000年見つめても飽きないのです。自分の手を見つめれば、自分の手から光が出ることが分かります。夜、1人で横たわっていると、暗い夜にもかかわらず、自分が黄金の板に横たわって黄金の光を発して寝ていると感じるようになります。夢のような話です。そのようになれば、丘に上がっても万物が喚声をもって歓迎するのを感じることができます。皆さんもこのような経験をしたことがありますか。

 私たちは、自分が愛の宇宙の中に生まれたと考えれば、無限に幸福に感じられるだけでなく、世の中に「我を見よ」と自慢するほどなのです。神様が実験室で研究している途中に最も理想的で、爆発的な発見があったとすれば、それは正に自分だったというのです。このような観点から、神様の愛の相対的立場として造られた自分自身を破綻させることは、罪の中の罪であり、これを愛して保護することは善の中の善であるという結論が出てくるのです。それゆえに自殺することは、最も大きな罪になります。宇宙を破綻させる行動です。

 監獄に入って、拷問で血を吐くことになったとしても、神様が抱いてくださる愛のみ手を感じれば、それがかえって神様が骨髄にしみる愛で抱くことのできる一つの条件になるのです。このように考えるとき、死ぬような環境も、幸福な立場だと考えていくことができるのです。このようなことを考えるとき、男性も女性も、愛の力の中にいる人は、強い人なのです。国や世界を与えても変化させることができないのです。そのような人の前には、サタンも屈服せざるを得ない驚くべき結果が現れます。したがって、この宇宙愛を中心として神様が人間を代表して呼ばれるとするなら、その方が正にメシヤです。イエス様がその代表者なのです。メシヤを通さなくては宇宙愛を見いだすことができないのです。ですから、万民はそのあとについていかなければならないという論理が成立するのです。

 イエス様が「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14章6節)と言われましたが、ここに愛という言葉を一つ加えなければなりません。「わたしは道であり、真理であり、命であり、愛である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と言ってこそ、論理がもっとはっきりするのです。

私は父母の生命、愛、理想の結実体

 私たち人間は、父母の愛の中で生まれました。その父母の愛の一番中心の主人として生まれたのです。したがって、両親は私1人をつくり出すために愛し合ったという結論が出てきます。ですから、両親に対して同等の立場で権利を主張することができます。「お父さん、お母さんは、私がいなければ不幸です。私がいてこそ幸福でしょう」と言うとき、お父さん、お母さんは、「そうだ」と言うのです。また自分も、両親がいなければ不幸なのです。なぜなら、父母が原因で私は結果であるからです。父母と自分は、愛を中心として一つです。原因と結果が一つになって、一つの愛の実体圏を成すのです。これが宇宙の道理です。

 統一教会の「原理」では、主体と対象が一つになるところから力が出てくるといいます。したがって原因である両親が自分と一つになれば、主体と対象が一つになって、一体となったがゆえに新しい対象となり、より大きな主体と一つになることができます。神様がその主体ならば、その神様と一つになるのです。すなわち、神様の理想的な愛を中心として神様と完全な主体・対象関係を成すならば、神様と人間は完全に一つになるのです。神様と人間の愛の圏が成されれば、宇宙にはいつも明るい太陽のような愛の光が発せられるのです。

 自分は、お父さんとお母さんの二つの生命が一つに結合した生命の連結体であるだけでなく、父母の愛の同参者として父母の愛と一体です。さらには、自分は父母の理想とも一体です。理想には幸福や平和というものがすべて入ります。父母にとって、自分が世の中で成功した時の喜びが大きいとしても、なくした子供に出会った時の喜びとは比較にならないのです。ですから子供は、父母の最高の理想と一体だというのです。

 自分にはお父さん、お母さんの生命の綱、愛の綱、そして理想の綱が連結されているので、この綱は誰も切ることができないというのです。神様も切ることができず、宇宙も切ることはできません。むしろ宇宙のすべての力がそれを擁護しようとするのです。

 したがって、私がどこに行っても、お父さん、お母さんがついてくるようになります。あの霊界にまでも、お父さん、お母さんは、いつも共にいようとするのです。ですからお父さん、お母さんが同行することを嫌うのは、最も大きな罪です。この宇宙を破綻させる破壊行為なのです。

 父母を連れていくのを嫌うことは、既にその人が原則から離れて、堕落していくということを意味します。したがって、父母を自分の体のように思って愛し、父母に孝行することが人間において最高に価値あることです。「円満な家庭に福が来る」という言葉も、みなそこから来るのです。反面、父母が離婚することは、刀で子供を半分に切ることと同じです。それは宇宙の公法が許しません。これに逆らう父母は、どこに行っても災いを受け、不幸がついて回るのであって、幸福になることはできないのです。


韓鶴子総裁講演集」より