韓鶴子女史み言アーカイブ

韓鶴子女史が語られた至宝のメッセージ

人間の行くべき生涯路程③

物質世界、父母、神様は三大父母

 自分は、三大父母を通じて生まれました。最初の父母は、物質世界です。物質の世界からすべての要素を受け継いで、物質の中心として、物質の複合的な存在として自分は造られました。このような観点から、その物質元素自体が私を生んでくれた先祖でもあり、また自分の延長が物質世界でもあります。この物質は、愛の理想の立場においてのみ安着するように宇宙はできています。

 愛の理想の立場で、すべての細胞が楽に生きられるようになっています。もし腹を立てれば、みなこじれてしまいます。次に、自分の体を生んでくれた父母が二番目の父母です。自分を生んでくれた父母が、自分をして一つの形態を備えて生まれてくることができるようにしました。しかしこの父母は、どんなに頑張っても愛の主人になることはできません。自分の生命の主人にはなれますが、愛の主人にはなれないのです。

 愛の主人は、神様です。愛を宇宙化させて、愛を永遠化させるために神様がいらっしゃるのです。神様は、愛の主体であられるので、愛を中心として父母になっています。ですから、神様が私たちの第三の父母です。このように私たちは、三大父母をもっているのです。

人生が経る三時代の意味

 私たち人間の一生を見てみると、腹中時代10カ月、肉身時代100年、そして霊魂時代1000年、1万年を永遠に生きていきます。私たちの顔を見れば、目、鼻、口の三3階になっていますが、これは人間が生きていく3時代の姿を見せているのです。口は物質世界の腹中時代を象徴し、鼻は人の世界の地上時代を、目は霊界の天上時代を表します。赤ん坊が育つお母さんのお腹の羊水の中は、赤ん坊には正に自由天地です。お母さんのお腹の中では、いつも背中を曲げていなければならず、また勝手に足げりもできず、鼻も口もみな塞がっているのですが、ここは赤ん坊には自由天地だというのです。赤ん坊に必要なすべてを供給するパイプがへそについていて、へそでだけ息をしなければなりませんが、そのような世界が赤ん坊には自由天地なのです。

 赤ん坊がお腹の中から生まれるとき、「私は世の中に出て、口で蜂蜜も食べて、餅も食べて、御飯も食べる」と考えて生まれますか。むしろ、その腹の中から外に出るかと思って「ああ、出なければいい」と言うのです。しかし「出たくない」と言っても、時が来ればみなはじけて出るようになるのです。水(羊水)が流れ出れば、それに従って外に出るようになりますが、このようにして生まれるのが安産です。

 赤ん坊は生まれるや否や、泣くと同時に鼻の穴で息をするようになり、第2世界、すなわち空気世界に連結されます。お腹の中から空気世界に連結されて出てくる時には、腹中世界で暮らしたへその緒と羊水の袋をみな破壊して出てこなければなりません。それらの死(破壊)と同時に地球星のお母さんの所に生まれるのです。生まれて、口で食べて、鼻で息をするのです。ところが、地上で食べる食べ物は、肉身が生きるのに必要な栄養分であり、本質的な生命要素ではありません。生命要素は、正に愛です。したがって、この世の中で愛という空気を吸わなければなりません。お母さんから、お父さんから、愛の空気を吸わなければなりません。

 赤ん坊が生まれると、お母さんの愛の電波に沿って自動的に乳首を探しに行きます。醜女でも美女でも関係なく、お母さんであればいいのです。これこそ創造の妙味であり、神聖で偉大な姿なのです。人は愛で生まれ、愛を受けながら成長します。このような立場で見るとき「私」というものは、父母の愛の実なのです。お父さん、お母さんの愛がどうだということを実際の実として見せたのが自分なのです。愛の実であるがゆえに、父母は「私」を愛さなければなりません。

 その実を通して、無限な愛がまた実を結ぶのです。個人的愛、家庭的愛、氏族的愛、民族的愛、世界的愛、宇宙的愛、そして本質的な神様の愛まで連結することのできる道がここにあるというのです。

 出生したのち、肉身時代には、自分を生んでくれた父母が子育てを受け持って正しい人に育てるのです。世界と国と家庭を代表し、父母がすべてを教えて供給してくれます。私たちが父母から物質を供給され、教育され、個体として完成すれば、愛を中心とした横的な基盤に連結させなければなりません。それが結婚というものです。

 父母は、結婚するまで責任をもつのです。結婚してお父さん、お母さんが愛し合ったものを引き継ぐのです。父母が自分を生んでどれほど愛したかを、自分が結婚して子供を生んで育ててみることによって知るようになり、その愛を引き継ぐのです。そうすることによって自分は愛を完全に受けることができ、与えることができる人になるのです。そのようにして完全な1人の男性、女性として成熟するのです。

 父母の縦的な愛で生まれて成熟し、横的に愛するようになって初めて、総合的な愛の圏を見いだすことができるのです。天地は球形世界であるがゆえに、縦横と上下、左右、前後の愛が連結されてこそ、それが授受して回り、すべてが総合されて一つの調和のセンターとして現れるのです。したがって天地の縦的愛が内外に軸としてしっかりと立てば、その次に横的な愛が必要なので、思春期というものがあるのです。

 思春期には、ただ秋風に落ち葉がころころ転がるのを見るだけでも「いい」と言うのです。乞食が訪ねてきて物請いの歌を歌っても、思春期には「あ! また来た。またやってるな」と言って歓迎します。そのように四方に拡大されるのです。ですから、おとなしくしていた女性たちも、髪の手入れや化粧をし、しきりに体に何かを塗るようになります。欲深くなるのです。それが愛の横的な現象なのです。


韓鶴子総裁講演集」より