韓鶴子女史み言アーカイブ

韓鶴子女史が語られた至宝のメッセージ

真の父母「文鮮明先生み言訓読大会」②


真の起源

 真の起源は、神様であられます。神様がいらっしゃることによって、真が成り立つのです。神様が離れるようになるとき、真も離れるようになります。そこには真ではない、悪の起源が生まれるのです。真があってこそ、真なる結果をもたらすことができます。言い換えれば、神様がいらっしゃることによって、神様の願いが成され得るということです。それゆえ、「真」、「善」という名詞は、人間を主にして立てられたのではなく、神様を主にして立てられたのです。

 このような観点から見ても、真は人間が勝手に考えることのできるものではありません。すなわち、堕落した人間が勝手に管理する、そのような位置に従属しているのではなく、真が私たちを主管しているということを知るべきです。それゆえ、私たちは、いつも真の前に屈服すべきです。真を立てて、そこに順応すべきです。

 皆さんの現実的な生活や、あるいは良心生活を推し量っても、真は完全に天に属しているという事実を否定する道理はないでしょう。

 人間自体に連結された位置からは、真の起源を備えることはできません。真は、必ず絶対的な基準が必要です。それゆえ、絶対者、あるいは神様という問題がここに登場せざるを得ません。それは今まで地上に真の人がいなかったので、そうなのです。

 それゆえ、真を指向しながら生きる人自体は、真の動機になり得ません。その動機は、神様でなければなりません。必ず宗教や、人類歴史上において、最後の重要な分岐点に行っては、神様が登場します。絶対者が必ず必要になるのです。

 哲学が追求する目標、すなわち、真理を通じて最後の目標について追求していったり、あるいは、存在の起源を掘り下げていっても、必ずここには神様という問題が介在し、「超越者」、「絶対者」という名詞が介在するのです。

 絶対者と関係を結ばなくては、いかなる学問や、存在価値もその起源が解決できないからです。それで、人間たちは深刻な場では、必ず真を通じて解決しようとしたのです。このような事実を、私たちは否定することができません。それゆえ、真の起源は、人間だけでなるのではなく、必ず絶対者、神様が介在しなければならないのです。真を主張する宗教は、神様を離れては考えることができません。真を主張する人倫道徳も、神様を否定できません。

 では、真がとどまり得る場所とはどこでしょうか。もちろん、天を起源として真の位置を地上に立てようとされるでしょう。これは、神様の願いです。それで、どこにとどまるかということが問題になります。私たちの生活の周辺にとどまるのです。イエス様も「天国は汝の中にある」とおっしゃいました。真なる国である天国は、心の中にあります。何らの邪心もない、深々とした谷に位置しているのです。

 私たちの心の基礎を分析してみると、知情意になっています。知情意のうち、何が根本かというとき、意でもなく、知でもない、情です。皆さんは、自分に一番貴いものがあるとすれば、それをどこに置きたいですか。自分だけが知っている所に置きたいのです。そこは、誰も触れられず、関与できない、すなわち自分だけが絶対的に管理し得る所です。そこは、どこでしょうか。心の深い所に埋めておくのです。「ここであれば安心だ」と言える所に置くのです。

真の原器

 愛には革命もなく、変化もないのです。変わるものに貴いものはありません。ダイヤモンドは硬さにおいて変わらないために宝物扱いを受けるのであり、黄金は黄色い色が変わらない特異な権威をもったために、その色が変わらないところにおいて貴いのです。真珠は、調和した色、優雅な色をもっていますが、それが変わらないために貴いのです。貴いという宝物を、なぜ変わらない特性を中心として策定したのでしょうか。それが宇宙の万物の存在価値を比較できる基準だからです。

 では、この宇宙のあらゆる測定で、全体を測定し得る価値基準において、一番最初の基準とは何になるでしょうか。それが問題です。金でしょうか、ダイヤモンドでしょうか。それは変わらない愛、壊れない愛なのです。勝手にできるようですが、勝手にはできないのです。そこに自分が含まれるのです。

 この宇宙において、そのような原因の中の原因になり得る度量衡や原器とは何かという問いに対して考えるとき、どうでしょうか。それはある測定器の原器ではなく、変わらないある物でもありません。神様もその標準を変更させることができず、人間も変更させることができません。永遠不変的でありながら、宝の価値をもち、地の果てや、地獄や、天上世界や、どこにおいても昼夜を克服し、地域を克服し、距離を克服し、時空を克服して、絶対的な測定の基準、比較の基準になり得るものとは何でしょうか。


韓鶴子総裁講演集」より