韓鶴子女史み言アーカイブ

韓鶴子女史が語られた至宝のメッセージ

真の父母「文鮮明先生み言訓読大会」⑥

真の父母の価値

 神様の摂理の目的とは何かというと、一つの焦点です。神様の理想が実現される場も、正にその場です。私たちが、失ってしまった父母、失ってしまった真の父母に出会える所も、正にそこです。ですから、その基台がすべての中心です。その立場、それが「真の父母」というものです。歴史上に多くの立場がありましたが、この立場が最も価値のある立場です。それがどれほど重要なものなのか考えてみてください。すべての聖人たちがこの基台、この問題のために戦いました。神様がこれを重要に考えられ、霊界にいるすべての霊人たちも、そのように考えています。それゆえ、この地上の人類すべても、これを重要だと認識しなければなりません。

 皆さんは、これの本当の価値を知ることができませんでした。これは、数千個の国土を与えても換えられません。国土ほどのダイヤモンドを与えても換えることができません。アメリカ全体を神様に祭物として捧げるとしても、皆さんはそれを得ることができません。このような観点で歴史を見れば、歴史はこれと何の関係もありません。この立場は、堕落する以前の人間の最初の先祖のための立場であるために、これ以後には、いかなる歴史も、堕落した歴史もあり得ません。

 そうであるなら、民主主義の終末はどのようになるでしょうか。民主主義もこのような観点によって、真の御父母様によって認められ得るということを考えてみるべきです。では、共産主義はどのようになるでしょうか。彼らには歴史がありません。

 真の父母、ここから新しい内容が出発するでしょう。すなわち、すべての中心、すべての内容、そしてすべての結果がここから出発するでしょう。ここに参与できる者たちが、地上の最初の勝利者になるでしょう。ここから、神様の愛を中心として、家庭を成し、サタンの主権を追い払い、この地上に新しい天国を建設するために、出発することができます。また、ここから歴史の実が結ばれるようになるでしょう。この位置が全世界の中心点です。

 この位置が未来のための出発点になるでしょう。ここから過去の歴史の完成が成されるでしょうし、現在の歴史の完成が保全されるでしょうし、未来世界の完成が始まるでしょう。この点、この位置をつかむことができるなら、皆さんは一人の人間としてすべてを征服した征服者になることができます。

 では、その価値は、どれほど大きいでしょうか。それがどれほど素晴らしいもので、皆さんがそれをどれほど愛し、どれほどたたえ、どれほど尊重し、また、どれほど好むようになるでしょうか。この位置は、最高に高い位置になるべきであり、歴史において最高の高い位置に置かれなければなりません。

 あらゆる偉大な人たち、彼らがいくら偉大だとしても、これとは比較になりません。父母になるためには、天地が和答(互いに応じ答えること)しなければなりません。天上世界に行って神様に勝ってこなければなりません。アダムが、神様が違うというのを「はい」と言って、事実を事実でないものにしたので、事実でないものを事実として肯定させられる方法を取らなくては、本然の基準に入れないのです。

 天地間に真の父母になるための過程で、すべての問題を実体的に解決し得る内容が、天地を明らかにするのであり、すべての歴史的な曲折を解放させるのであり、神様の心中に打ち込まれている釘を抜くのです。神様が願う愛の解放は、このような息子、娘を抱いて愛しながら、喜び、踊り、笑うことです。すべてが歓喜に満ちて、千年、万年その喚声が被造万物から全天地に満ちあふれなければならないのです。

 神様の創造理想には、言葉で言えない心情があります。このみ旨をアダムが完成期に自ら悟って、悪魔を屈服させなければならないのです。解放の主権者にならなければなりません。万国の統治者であり、救いの主人であり、全兄弟の長男権を備え得る人がアダムなのです。

 サタン世界が反対することによって、40日間霊界が混乱の中に陥るのです。そこでは、神様が審判官であるので、神様から正義の判定を受けなければなりません。そこで文総裁の勝利の判決を受けて、地上に来るのです。


韓鶴子総裁講演集」より

真の父母「文鮮明先生み言訓読大会」⑤

「真の父母」という言葉は福音の中の福音

 皆さんがユートピア世界を探すためには、どこへ行くべきでしょうか。本然の家庭の愛の圏を経ずしては、行く道がないということを知るべきです。レバレンド・ムーン(文鮮明先生)が直接主管圏内と間接主管圏内を神様の愛と真の父母の愛でつないだ基準があるので、今日、霊界と肉界がその愛の橋を通じて往来できる道が生じるのです。

 私たちの「統一原理」でいうように、神様がつくられた被造万物は、神様の直接主管圏や間接主管圏のもとにあります。では、それをどのように一つにするのでしょうか。それは、真の愛だけが可能なのです。これが一つになる時は、人間アダム・エバが成熟した時だけです。そのような時には、自動的に水平的真の愛が現れるのです。

 その位置で、「おお、あなたは私の同伴者です!」と抱き締めるようになる時、真の愛がそのカップルの中心に現れるのです。プラスの愛が完成して現れるようになれば、マイナスはすぐに現れるようになっています。プラスの愛がマイナスの愛に降りてきて運行するようになれば、真の愛の標準を描いていくのです。そうすれば終わるのです。

 真の愛が現れれば、すべてが自動的についてくるのです。真の愛だけが、すべてに作用するのです。それで、世界がユートピア圏に転換されるのです。歴史過程において、悲しみがあれば最高の悲しみ、困難があれば最高の困難、血の代価を払うなら最高の代価を払った、その結果として見いだされたのが、この真なる家庭なのです。

 この真なる家庭が見いだされてこそ、歴史的な悲しみが解怨され、歴史的な死の代価が解怨され得るので、歴史はこのような悲惨な蕩減の条件を払ってきたのです。したがって、この真なる家庭がこの地に顕現したということは、人類にとっては、この上ない喜びであり、この上ない価値になるのです。

 そのような真なる家庭を成すためには、真なる父母がいなければなりません。真なる父母がいなければならないと同時に、真なる夫婦が成されなければならないのです。真なる夫婦が成された上に、真なる子女が誕生しなければならないのです。

 今日皆さんは、「真の父母」という名詞を知っています。この「真の父母」という言葉は、有史以来、誰も呼んでみることができず、誰も考えることができませんでした。しかし、今日、私たちは呼ぶことができ、知ることができ、侍ることができる光栄なる立場に立ちました。このように私たちは、歴史上の誰よりも幸福な立場に立っているのであり、誰よりも高貴な立場に立っているということを、皆さんは知るべきです。

 「真の父母」という名前とともに、歴史は今まで苦労してきて、真の父母の勝利の基盤を備えるために、歴史的な数多くの犠牲の代価を払ってきたことを考えるとき、「真の父母」という名詞こそ、今日私たち人類には福音の中の福音であるということを知るべきです。

 「真の父母」というその名前3文字(ハングルで)を考えるとき、真の父母によって歴史が治められ、真の父母によって新しい世界に入り得る起源が生まれ、真の父母によってサタンを屈服させられる内的な因縁が決定し、真の父母によって外的な世界を占領しているサタンを征服して、初めて神様を解怨してさしあげることのできる中心が決定されるのです。それゆえ、真の父母と共に暮らし、真の父母の命令に従って行動することのできる、この驚くべき恩賜に、皆さんは、まず感謝しなければなりません。

 自分の人生をみな犠牲にするとしても、真の父母の行く道に同調できる道があるなら、私たち人類の前に、これ以上の幸福なことがないということを知るべきです。真の父母の命令に従って、敵陣に向かって行進する兵士がいるなら、彼は、人類が願う希望の最も頂点において、天と地が直視し、歴史が注目する偉大な勇士であることを、私たちはよく知るべきです。


韓鶴子総裁講演集」より

真の父母「文鮮明先生み言訓読大会」④

二つの石板と真の父母

 イスラエル民族を荒野で導くとき、火の柱と雲の柱がありました。昼に導いたのが雲の柱で、夜に導いたのが火の柱でした。それは何を意味するのでしょうか。男女を代表して終わりの日に父母が来て、イスラエル民族から侍られるのを象徴的に見せてくれたのです。この火の柱と雲の柱の導きに従わない人は、みな滅亡するのです。

 また、イスラエル民族が荒野に出て40年さすらい、方向をつかめないので、その民族が滅亡するのを心配して、モーセシナイ山に呼び、40日断食させて与えた2つの石板とは何かというと、アダムとエバ、真の父母を象徴したものだったということを知るべきなのです。契約の箱の中に、どうして2つの石板を入れたかが問題です。2つの石板は、神様のみ旨を終結し得る中心として、アダムとエバを象徴したのです。それで、契約の箱の中に入れたのです。

 私たちの願いとは何でしょうか。神様は縦的な父母であり、アダムとエバは横的な父母ですが、その縦横の父母が一つになって喜び得る場で、愛され得る息子、娘になるのです。ところが、そのようにできなかったのが恨みです。そうでしょう。そのような愛を1度受けてみたいという熱望をみなもっているのです。宗教も全部そうなのです。

 縦的な神様と横的な面で一つになって愛し得る父母が、この地上にいたでしょうか。いませんでした。人類の最初の先祖は、堕落したために偽りの父母になりました。アダムとエバが偽りの父母になったために、そのような父母は存在し得ませんでした。それで、真の父母が出てこなければなりません。真の父母が歴史上に出てこなければなりません。

 そのような歴史的使命を代行する、一つの名詞をかぶせて呼ぶ、その存在とは誰でしょうか。その方がまさしく救世主であり、メシヤなのです。救ってあげるにおいて、体を救ってあげるのではなく、理想的な愛の願いを成してくれるのです。

 では、メシヤは、どんな存在として来なければなりませんか。間違いなく、真の父母として来なければなりません。メシヤは、真の父母として来なければならないのです。イエス様をキリスト教では、メシヤとして信ずるのです。救世主として信じます。

 真の父母として来るためには、どのような立場で来なければなりませんか。1人では駄目なのです。真なる父に代わり得る一人の男として出てこなければならないのです。今まで数多くの宗教は、1人の男を探してきたのです。男の中でも、正しい生活をする男を探してきたのが儒教の教えと見ることができ、霊界を主にした男を探してきたのが仏教の教えだと見ることができるのです。

 では、キリスト教とは何でしょうか。神様の息子になって、愛する家庭をつくろうというのです。もっと具体的な内容をもってきたのがキリスト教です。それゆえ、神様の前において「私はひとり子だ」とイエス様が言われたのです。ひとり子が出てきたのに、ひとり子が一人で暮らしたなら大変なことになるのです。ひとり女がいなければなりません。それで、ひとり女を探して、神様を中心として、ひとり子とひとり女が互いに愛し合う立場で結婚しなければならないのです。ですから、神様が縦的な父母として喜び、そのひとり子とひとり女が横的な父母として喜び得る新郎新婦になり、地上で息子、娘を生まなければなりません。そうしてこそ初めて、一族が広がり始めるのです。

 それゆえ、イエス様においてイスラエルの国を失っても、ユダヤ教を失っても、一番必要としたものがありますが、それは何でしょうか。まさしく女性なのです。男の前に女がいなくてはなりません。

 イエス様は、その志を果たせなかったので、死んでいく時に「私は花婿であり、あなた方は花嫁である」と言ったのです。それで、キリスト教では2000年間、新郎であられるイエス様を待ち、キリスト教信者たちが新婦になろうとして、もがいてきたのです。その標準とは何でしょうか。それがメシヤですが、真なる父母の位置をもって合わせるのです。それが小羊の婚宴です。


韓鶴子総裁講演集」より

真の父母「文鮮明先生み言訓読大会」③

 地球にも緯度、経度において零点基準があります。それが英国のグリニッジ天文台を中心として、零点になっています。いくら変わらせても、変わらないのです。そのような基準があるべきではありませんか。それがなければ、秩序の世界が形成されないのです。

 愛ももちろん神様がつくり得ると見ますが、その愛を所有するということは、1人では不可能です。2人で所有しなければなりません。愛は、神様も1人では見いだせないのです。それゆえ、その基準、測定原器とは何でしょうか。宇宙万象の存在世界だけでなく、永遠の世界ですべてのものを測定し得る基準、絶対的に一つしかないその原器とは何でしょうか。根本問題です。それが真の愛というものです。それで、愛は春夏秋冬、季節の変化に影響を受けません。

 皆さん、真理とは何でしょうか。真です。真とは何でしょうか。それ以上の基準として立てられないという位置に立ったものを「真理」と言います。ここに物理学の博士もいらっしゃるでしょうが、物理学を勉強するには、自然世界のすべての動きを知らなければなりません。それらは、漠然とは動きません。

 真理の中には、何がありますか。真理の中には、必ず東西南北の四方があるのです。真理があるときは、必ず環境があるのです。では、環境が先ですか、真理自体が先ですか。これが問題となるのです。環境が先なのです。

 私たち人間を見れば、どうですか。人間を中心として見るとき、真なる人間が縦横の標準にならなければなりません。「縦から見ても正しい。横から見ても正しい」と言える基準にならなければならないのです。

 縦横が一致してこそ、公式的法度上において、前後、左右、上下に差異がありません。同じです。これを、どこにもっていって合わせても、きっちりと合うというのです。東でも合い、西でも合い、北でも合い、南でも合い、地上世界でも合い、霊界でも合うというとき、「真である!」と言うのです。

 ところで、いくら大きくても、ミリメートルで測定してみると、残ったものが半ミリメートルにもならなかったとしても、これは全部否定するようになります。不完全なのです。そのような何かがなければならないのではないですか。測定する基準がなければならないのです。

真と真の愛

 皆さん、今世界には50億の人類が暮らしていますが、この地球村に暮らす人たちの先祖たちは、どれほど多く地上で生きては死んだでしょうか。少なくとも現在、暮らしている人の何百倍、何千倍の人たちが生きては死んだでしょう。では、その人たちの中で、人類が願う真なる人が何人いたでしょうか。「真なる」ということは、千年前も、今も、いつでも真です。それと同様に、私たち人間において、千年、万年、億万年変わり得ない色をもった、そのような真の男がいるでしょうか。これが問題です。そのような真の女がいるでしょうか。どう思いますか。

 宗教界では、人間は堕落したと見ています。もちろん、背景が異なる宗教もありますが、全部救いを受けるために、価値のある新しい人間を探していっています。それは、どういう意味でしょうか。真なる本然の人間、真なる本然の人間像に及ばなかったために、それをいつも追求するのです。それは、千年前も、何億年前も、今も同じです。今後も人類が存続するいかなる環境、いかなる時代を問わず、それを追求するようになっています。

 皆さんも、その真なる人を探しているのです。真なる男、真なる女を探しているのです。有史以来、生命をもって生まれた男女は、自他を問わず、そこに首をかけて考えるようになっています。それゆえ、部落で暮らすようになれば、その部落で一番の真なる人になろうとするのです。


韓鶴子総裁講演集」より

真の父母「文鮮明先生み言訓読大会」②


真の起源

 真の起源は、神様であられます。神様がいらっしゃることによって、真が成り立つのです。神様が離れるようになるとき、真も離れるようになります。そこには真ではない、悪の起源が生まれるのです。真があってこそ、真なる結果をもたらすことができます。言い換えれば、神様がいらっしゃることによって、神様の願いが成され得るということです。それゆえ、「真」、「善」という名詞は、人間を主にして立てられたのではなく、神様を主にして立てられたのです。

 このような観点から見ても、真は人間が勝手に考えることのできるものではありません。すなわち、堕落した人間が勝手に管理する、そのような位置に従属しているのではなく、真が私たちを主管しているということを知るべきです。それゆえ、私たちは、いつも真の前に屈服すべきです。真を立てて、そこに順応すべきです。

 皆さんの現実的な生活や、あるいは良心生活を推し量っても、真は完全に天に属しているという事実を否定する道理はないでしょう。

 人間自体に連結された位置からは、真の起源を備えることはできません。真は、必ず絶対的な基準が必要です。それゆえ、絶対者、あるいは神様という問題がここに登場せざるを得ません。それは今まで地上に真の人がいなかったので、そうなのです。

 それゆえ、真を指向しながら生きる人自体は、真の動機になり得ません。その動機は、神様でなければなりません。必ず宗教や、人類歴史上において、最後の重要な分岐点に行っては、神様が登場します。絶対者が必ず必要になるのです。

 哲学が追求する目標、すなわち、真理を通じて最後の目標について追求していったり、あるいは、存在の起源を掘り下げていっても、必ずここには神様という問題が介在し、「超越者」、「絶対者」という名詞が介在するのです。

 絶対者と関係を結ばなくては、いかなる学問や、存在価値もその起源が解決できないからです。それで、人間たちは深刻な場では、必ず真を通じて解決しようとしたのです。このような事実を、私たちは否定することができません。それゆえ、真の起源は、人間だけでなるのではなく、必ず絶対者、神様が介在しなければならないのです。真を主張する宗教は、神様を離れては考えることができません。真を主張する人倫道徳も、神様を否定できません。

 では、真がとどまり得る場所とはどこでしょうか。もちろん、天を起源として真の位置を地上に立てようとされるでしょう。これは、神様の願いです。それで、どこにとどまるかということが問題になります。私たちの生活の周辺にとどまるのです。イエス様も「天国は汝の中にある」とおっしゃいました。真なる国である天国は、心の中にあります。何らの邪心もない、深々とした谷に位置しているのです。

 私たちの心の基礎を分析してみると、知情意になっています。知情意のうち、何が根本かというとき、意でもなく、知でもない、情です。皆さんは、自分に一番貴いものがあるとすれば、それをどこに置きたいですか。自分だけが知っている所に置きたいのです。そこは、誰も触れられず、関与できない、すなわち自分だけが絶対的に管理し得る所です。そこは、どこでしょうか。心の深い所に埋めておくのです。「ここであれば安心だ」と言える所に置くのです。

真の原器

 愛には革命もなく、変化もないのです。変わるものに貴いものはありません。ダイヤモンドは硬さにおいて変わらないために宝物扱いを受けるのであり、黄金は黄色い色が変わらない特異な権威をもったために、その色が変わらないところにおいて貴いのです。真珠は、調和した色、優雅な色をもっていますが、それが変わらないために貴いのです。貴いという宝物を、なぜ変わらない特性を中心として策定したのでしょうか。それが宇宙の万物の存在価値を比較できる基準だからです。

 では、この宇宙のあらゆる測定で、全体を測定し得る価値基準において、一番最初の基準とは何になるでしょうか。それが問題です。金でしょうか、ダイヤモンドでしょうか。それは変わらない愛、壊れない愛なのです。勝手にできるようですが、勝手にはできないのです。そこに自分が含まれるのです。

 この宇宙において、そのような原因の中の原因になり得る度量衡や原器とは何かという問いに対して考えるとき、どうでしょうか。それはある測定器の原器ではなく、変わらないある物でもありません。神様もその標準を変更させることができず、人間も変更させることができません。永遠不変的でありながら、宝の価値をもち、地の果てや、地獄や、天上世界や、どこにおいても昼夜を克服し、地域を克服し、距離を克服し、時空を克服して、絶対的な測定の基準、比較の基準になり得るものとは何でしょうか。


韓鶴子総裁講演集」より

真の父母「文鮮明先生み言訓読大会」①

1998年2月23日、神奈川大会、秦野文化会館
24日、北海道大会、テルメインターナショナル札幌
25日、東北大会、ホテル瑞鳳
26日、関東大会、千葉ポートアリーナ・ホテル
27日、中部大会、愛知県体育館
28日、関西大会、神戸市ワールド記念ホール
3月1日、北陸大会、金沢JALホテル
2日、四国大会、高松市マツノイパレス
3日、中国大会、広島市郵便貯金ホール
4日、九州北部大会、福岡市ホテル・シーホーク
5日、九州南部大会、熊本市ニューオータニ熊本ホテル
6日、東京大会、大田区体育館

 私たち統一教会(現世界平和家庭連合)員たちが平素遣う言葉の中に、「真の父母」という言葉があります。その言葉は、世界のどの図書館にもありません。「真の父母」という言葉は、簡単で易しい言葉のようですが、驚くべき内容が込められています。

 キリスト教が2000年の歴史を経てきながら、人類の先祖が堕落したとしたなら、堕落した父母は偽りの父母、悪い父母で、堕落しない父母は善の父母であり、真の父母だということがとっくに分かったはずなのに、それを今まで悟ることができなかったのです。それを糾明して発表できる、この時を待ってきたのです。

 過去の歴史において、真の父母ということを考えた人がいるかもしれませんが、その背後がどうだということまでは解く道理を見いだせなかったのです。統一教会の膨大な原理が明らかになる前には、それをはっきりと解くことができなかったので、誰も「真の父母」という言葉を語ることができませんでした。

 「原理」のみ言、あるいは、私たちが知っている統一教会歴史観、また、人類の本然的な根源に対する事実を明らかにしたということは、驚くべき事実です。「真の父母」という言葉をはっきりと知ることによって、人類始祖の堕落が不倫の愛によるものだということが明らかにされました。このような堕落によって、神様が創造理想として立てようとした真なる父母と関係のない、血統的な因縁を残したというのです。すなわち、誤った血統を受け継ぐようになったというのです。

 それゆえ、「真の父母」という言葉は、人類始祖から歴史的にすべての人間が誤った血統の中に生きたものを清算してしまい、神様を中心として、新しい本然的な根となる愛と生命と血統がつながるということを意味する言葉です。これは本当に驚くべき言葉です。「真」とはこの天地間に真なる方がいるなら、その方は誰でしょうか。絶対者です。この絶対者を、今日私たちの韓国語で言うと「お一人しかいらっしゃらない御主人様」ということです。これをもっと縮めて言うと、神様(ハナニム)になります。

 では、神様はどんな方でしょうか。神様は、地上の良い人も好きであり、悪い人も愛される方です。罪を犯して死刑場に出て死ぬ死刑囚も「神様! 私をかわいそうに思ってくださいませ」と言って死にます。

 では、どうして神様の前では、悪いことをたくさんして死んでいく立場にある人も、悔い改めて良い心で再出発を誓うのでしょうか。また、どうして神様の前に最高に寄与し、頼ろうとし、その方と共にいたがり、内心では父母と兄弟よりも切実に事情を通じたがるのでしょうか。これは、神様が真だからそうなのです。

 真なる方は好きな者だけ好むのではなく、自分に「死ね」と言う怨讐までも好まなければなりません。好きな人には、すべてを任せることができ、すべてを相談したくもあり、すべてを願うこともできる立場にある人であってこそ、「真なる人だ」と言うことができるでしょう。

 私を憎む人に私が3回以上良く接してあげたなら、彼が頭を下げるようになるのです。そうか、そうでないか、1度やってみてください。人には良心があって、自分が誤ったのか、よくやったのか分かるのです。


韓鶴子総裁講演集」より

祝福と永生⑦

夫婦の霊人体

 私たちは、真の愛の理想を求めていく群れです。それで、霊界の代弁者として立つために、真の愛の理想を現実の私の身にもって、その真の愛を、どれほど横的な世界に植えて、種として蒔くかです。ここにおいて、真の愛の心で互いに授け受けながら育つのです。このようにして、真の愛の実を結び、その夫婦が霊界に行く時、神様の永遠なる真の愛の圏内に抱かれ、神様と一体となります。

 人は地上で、肉身は老けますが、夫婦生活をして真の愛で愛すれば愛するほど、霊人体は若くなります。これは何の話かといえば、人間が長く生きれば生きるほど、内的な人間である霊人体は、最高に円熟した、美男、美女になるのです。肉身という殻は、古着のように脱がなければならないのに、これが若いままくっついていれば、どうしますか。

 それで年を取れば、外側の殻は全部駄目になりますが、内的な中身は固くなって、未来の相続者になり、美人となるのです。秋に実った栗のようになります。

結婚はなぜしなければならないか

 神様を直接愛する以前に、皆様の足元から、食べ物、物質、万物を愛し、皆さんの体を愛さなければなりません。万物を愛することで、その要素を吸収し、自分の体を愛するようになります。
 第1の父母は、皆さんを生んでくれた父母であり、第2の父母は地球です。この地上です。皆さんは、地上から肉身が成長できるように要素を供給されるのです。地上が肉身の第2の父母です。第2の父母を経て、第3の父母のもとに入っていくのが、死という過程です。第3の父母の所へ行くのに、そのままで行くのではありません。第3の父母に帰っていこうとすれば、本来の父母であった、神様の姿に似なければなりません。

 したがって、結婚するのはなぜでしょうか。神様の姿に似るためです。神様は二性性相であり、各一性が合体化した一体的な存在であられます。その神様の分性的人格自体が男女であるので、それらが合性一体化して、種のようになって、神様の本性の立場に帰らなければなりません。

 しかし、その種を連結させるためには、真の愛の道理である結婚をしなければなりません。生まれる時も、成長しながらも、生活をしながらも、真の愛を中心として生き、どこへ行くとしても、真の愛に帰るために行かなければなりません。結婚の目標を、真の愛のために探し求めていかなければ、永生の方向が違ってくるということを、皆さんは知らなければなりません。

 祝福結婚と永生は、真の父母から始まります。真の父母と真の愛で一体となることは、個人、家庭、国家、世界、天宙が完成され、神様の創造理想が完結されるのです。真の御父母様が生まれた所は、人類の祖国です。そこは、地上天国と天上天国の出発地となり、神様の全権時代を迎えるようになります。それで滅びることはなく、全盛の時代へと発展するのです。

 日本の国民は訓読大会を通して、真の父母と超国家的に一体を成して、万国に勝利圏を誇れるようにいたしましょう。ご静聴ありがとうございました。


韓鶴子総裁講演集」より