韓鶴子女史み言アーカイブ

韓鶴子女史が語られた至宝のメッセージ

真の父母「文鮮明先生み言訓読大会」④

二つの石板と真の父母

 イスラエル民族を荒野で導くとき、火の柱と雲の柱がありました。昼に導いたのが雲の柱で、夜に導いたのが火の柱でした。それは何を意味するのでしょうか。男女を代表して終わりの日に父母が来て、イスラエル民族から侍られるのを象徴的に見せてくれたのです。この火の柱と雲の柱の導きに従わない人は、みな滅亡するのです。

 また、イスラエル民族が荒野に出て40年さすらい、方向をつかめないので、その民族が滅亡するのを心配して、モーセシナイ山に呼び、40日断食させて与えた2つの石板とは何かというと、アダムとエバ、真の父母を象徴したものだったということを知るべきなのです。契約の箱の中に、どうして2つの石板を入れたかが問題です。2つの石板は、神様のみ旨を終結し得る中心として、アダムとエバを象徴したのです。それで、契約の箱の中に入れたのです。

 私たちの願いとは何でしょうか。神様は縦的な父母であり、アダムとエバは横的な父母ですが、その縦横の父母が一つになって喜び得る場で、愛され得る息子、娘になるのです。ところが、そのようにできなかったのが恨みです。そうでしょう。そのような愛を1度受けてみたいという熱望をみなもっているのです。宗教も全部そうなのです。

 縦的な神様と横的な面で一つになって愛し得る父母が、この地上にいたでしょうか。いませんでした。人類の最初の先祖は、堕落したために偽りの父母になりました。アダムとエバが偽りの父母になったために、そのような父母は存在し得ませんでした。それで、真の父母が出てこなければなりません。真の父母が歴史上に出てこなければなりません。

 そのような歴史的使命を代行する、一つの名詞をかぶせて呼ぶ、その存在とは誰でしょうか。その方がまさしく救世主であり、メシヤなのです。救ってあげるにおいて、体を救ってあげるのではなく、理想的な愛の願いを成してくれるのです。

 では、メシヤは、どんな存在として来なければなりませんか。間違いなく、真の父母として来なければなりません。メシヤは、真の父母として来なければならないのです。イエス様をキリスト教では、メシヤとして信ずるのです。救世主として信じます。

 真の父母として来るためには、どのような立場で来なければなりませんか。1人では駄目なのです。真なる父に代わり得る一人の男として出てこなければならないのです。今まで数多くの宗教は、1人の男を探してきたのです。男の中でも、正しい生活をする男を探してきたのが儒教の教えと見ることができ、霊界を主にした男を探してきたのが仏教の教えだと見ることができるのです。

 では、キリスト教とは何でしょうか。神様の息子になって、愛する家庭をつくろうというのです。もっと具体的な内容をもってきたのがキリスト教です。それゆえ、神様の前において「私はひとり子だ」とイエス様が言われたのです。ひとり子が出てきたのに、ひとり子が一人で暮らしたなら大変なことになるのです。ひとり女がいなければなりません。それで、ひとり女を探して、神様を中心として、ひとり子とひとり女が互いに愛し合う立場で結婚しなければならないのです。ですから、神様が縦的な父母として喜び、そのひとり子とひとり女が横的な父母として喜び得る新郎新婦になり、地上で息子、娘を生まなければなりません。そうしてこそ初めて、一族が広がり始めるのです。

 それゆえ、イエス様においてイスラエルの国を失っても、ユダヤ教を失っても、一番必要としたものがありますが、それは何でしょうか。まさしく女性なのです。男の前に女がいなくてはなりません。

 イエス様は、その志を果たせなかったので、死んでいく時に「私は花婿であり、あなた方は花嫁である」と言ったのです。それで、キリスト教では2000年間、新郎であられるイエス様を待ち、キリスト教信者たちが新婦になろうとして、もがいてきたのです。その標準とは何でしょうか。それがメシヤですが、真なる父母の位置をもって合わせるのです。それが小羊の婚宴です。


韓鶴子総裁講演集」より