韓鶴子女史み言アーカイブ

韓鶴子女史が語られた至宝のメッセージ

孝行の道を行った興進(1)

1984年1月3日、ニューヨーク、ベルベディア修練所で

神の摂理とお父様の身辺

 興進(二男)の事故のニュースを聞いて、よく知っておられると思いますが、その間、皆さんが誰よりも精誠を込めた祈祷の祭壇を築いてくださったことに対して、母親として心から感謝いたします。あとでお父様(文鮮明先生)が原理的にいろいろとよく説明してくださると思いますから、私はしばらく私の感じたことと、また多くの人々が証してくださったいくつかの話だけをしようと思います。

 昨年の年末のことでした。科学者会議を終えられて、急にお父様が私に「私は韓国に行ってくる用事があるが、どう思うか」と言われた時、最初は「年を越してから行かれた方がいいと思います」と申し上げました。その理由は、私としてはもちろん感じることや予感がいろいろとあって、今年(1984年)の冬だけはお父様と子供たちと一緒に(米ニューヨークに)いたいという思いが大きかったのです。そこでそのように申し上げたのですが、お父様は説明されませんでしたけれども、お父様が韓国に行かなければならない、行かざるを得ないみ旨を前にして、大きな摂理があることを知った時に、私は何も言わずに、ただ従いました。

 韓国で勝共大会を宣布され、日程が定められた時、特別精誠を込めて祈祷するすべての人たちが、「お父様の身辺に気をつけなければならない」と言うのでした。一言で表現すれば、命にかかわる深刻な問題だったのです。

犠牲の代価で得た勝利

 予定された日程どおりに無事に大会を終えて、ソウルに上がってきた時、アメリカの金氏から電話を受けました。国民の積極的な反応と勝利的な大会の結果を前にして、もちろん喜ぶ気持ちが大きかったのです。しかし一方で、なぜか霊的に感じる重い影をどうすることもできませんでした。

 勝共大会を成功裏に終えて、12月22日午後5時ごろソウルに到着すると、2時間前にアメリカから電話があったということでした。「いつお母様が帰ってこられるのか。もう一度電話する」と言ったというのです。電話の内容は何だったのかと聞くと、説明はなかったのでよく分からないけれども、「急用だ」と言われたそうです。しかし、ちょうどその翌日が恩進(三女)の誕生日だったので、私は外に買い物に出なければならず、しばらく出掛けてきました。家に帰ってから聞いてみると、興進が交通事故で手術室に入っていったというのでした。

 数日前に家に電話をかけた時に、仁進(二女)、興進と話しました。興進に、「あなたは冬休みに何をする予定なの」と聞くと、興進は「私は何をしたらよろしいでしょうか。お母様が願われるとおりにいたします」と言うのでした。「それでは、どこか出歩くよりも、あなたは車を修理することにしているのですから、それをしなさい」と言いました。すると「ベリータウンで誰かが私にオートバイをくれるというので、それも修理しながら、冬休みの間、家にいます」と言いました。「ではそうしなさい」と言ったのですが、それが最後の言葉になりました。

 22日に冬休みが始まり、休みになるとオートバイをチェックしてみたくて、友達2人を連れていき、その帰り道で、そのような惨事に遭ったのです。その時間が、ちょうど光州で最後の勝共大会を開催する時間とほぼ同じでした。皆さんも報告を聞いてよく御存じでしょうけれども、その光州大会こそ、正に深刻な大会だったのです。

 今から興進の事故に関して、霊通する人々が証した内容についてお話ししましょう。韓国には霊界との密接な関係をもっている食口も多いのですが、外部においてこの世と関係をもちながら霊通する人たちも相当数います。その人たちみんなが一様にお父様を証し、いわば自分なりの精誠を尽くしているのです。その人たちはお父様について、「統一教会の食口であるならば、何よりも父母様の身辺に対して死を覚悟して守ってさしあげることが、父母様がたとえ何をされなくても、統一教会と世界と人類と神様のためになる道である」と言いました。

 一言で言って統一教会の人たちは、もちろん原理的に生活することも重要で、自分が受け持った任務どおりみ旨の発展のためにいろいろと苦労することも重要ですが、まず第一に、お父様にこの地上でいかに長生きしていただけるか、それが先決だということです。

 去る1983年12月が、お父様においては最も深刻な月であったと証していました。教会内の霊通する人々の証によれば、今回興進がこのようになったのは、お父様の命を狙っていた36人のテロ集団が集中的にお父様に害を加えようとしたけれども、その機会を失ったために、代わりに興進に襲いかかったというのです。それは、私が考えてみるとき、世界のサタンが総結集した、いわば最後の攻撃であったと思います。興進が事故に遭った当時の証拠、物証を通して皆さんがお聞きになれば、感じるところがあるだろうと思います。


「真の母(韓鶴子女史)のまなざし」より