韓鶴子女史み言アーカイブ

韓鶴子女史が語られた至宝のメッセージ

「神様の神秘な摂理」(2)

 次に、趙ハルモニについて述べてみたいと思います。当時は、李氏王朝時代だったのですが、趙ハルモニが誕生された所は、平安北道の定州でした。お父様の御生誕地は上思里でしたが、お祖母さんの生まれた所はそこから少し離れた「ウィケンメ」という村です。その言葉は発音がおかしくて、私が「そんな村の名前があったのですか」と聞いたことがあります。そうしたら、それが事実だそうです。先ほども、我が家はキリスト教の家門だというお話をしたのですが、当時のキリスト教の家門の人々は、「先祖崇拝」に対して、「サタンに仕える偶像崇拝である」と言って、先祖に仕えることのできない時代だったのです。それで、私自身も、私の先祖について詳しく知らないのです。

 韓国の自然は、文字通りに山も多く、また川も多くあります。特に平安南・北道は山川がきれいで、水が清いことで有名な所です。

 韓国は長い間、中国の属国のようになって、強い影響を受けてきたのです。あの当時、中国から天者(注:使者)が韓国を訪問するという知らせがありました。その当時の首都は漢陽(注:現在のソウル)だと記憶しています。そこまで行くには、多くの川を渡っていかなければなりませんでした。川といっても、渡る交通手段は渡し船程度で、そのようなもので中国の使者を迎接するということでは、国の面子を立てることができないし、また国家としては経済状況が困難なので、多くの橋を架けられる状況ではなかったようです。そこで、朝廷は次のような公示文を出したのです。中国からの使者を迎えるために、川に橋を架けられる篤志家を求めている、との内容だったのです。定州の近くに大きな川があったのですが、タルレ江という名前の川だと記憶しています。

 ところで、趙ハルモニの先祖の1人、趙漢俊というおじいさんが、自分でその橋を架けると決心して、自分の財産をすべて使って橋を造ったのです。それも、とても立派な石橋だったそうです。お父様も、「その石橋はとても立派にできていたもので、そこには数多くの逸話があった」とおっしゃったのです。ところで、長い年月が流れ、山川が変わっていったので、石橋が水に沈んだり、また表れ出たりしたのですが、そのたびごとに、国家に大事が起こったと聞きました。

 その趙漢俊おじいさんが橋を架け終わってみると、銅銭がたった3枚しか残っていなかったそうです。その当時の銅銭3枚は、現在の日本円に換算すればいくらになるかよく知りませんが、ドルに換算したらおそらく3ペニー(セント)にしかならないと思います。そこで、おじいさんはこう考えたのです。これくらいのお金では何も買えない。でも、自分の姿を見ると、履物がなければならない。それで、そのお金をもって草鞋を買ったそうです。

 いよいよ竣工式が翌日に行われるようになったのですが、その前夜、眠っていた時のことです。天から神様が現れて、こう言われたそうです。「私が来たのは、お前の精誠が天にしみ通ったからだ。お前の子孫を通じて天の天者を授けようとしたが、銅銭3枚が条件に引っ掛かったので、代わりに天女を授ける」と。

 それで、あまりにも驚いて目が覚めた趙ハラボジが扉を開けて外を見つめると、野原の中からなんと弥勒菩薩が湧き出てきたというのです。それから、その弥勒菩薩が育ち続けたそうです。それで、3回も家を建て替えたそうです。つまり、最初に建てた家は、弥勒が大きく育ったので、天井に届くようになり、それを破ったために、また建てたそうです。そのようなことが3回もあったそうです。伝説のような話でしょう?

 その当時といえば、馬に乗って旅をしていた時代でしたが、乗馬の姿で弥勒菩薩の前を通り過ぎることはできなかったそうです。必ず馬から降りて、お辞儀をして通り過ぎなければならなかったそうです。そうしないと、馬の足がぴったりとくっついてしまったまま、離れなかったそうです。それでみな、弥勒菩薩のあるその家を通り過ぎるのを恐れたということです。

 ところが、趙氏門中(注:一族のこと)に、一つの問題が起こりました。趙氏門中の娘として生まれた女の子たちはすべて弥勒に似ていて、腰がなかったのです。成長し、大人になった娘のいる家では、その娘を結婚させなければならないのに、おなかが大きいためよく誤解を受けて、それが問題になったのです。

 そこで、趙氏の門中会議を開いたそうです。我々趙氏門中に生まれる娘たちは、大人になって結婚しなければならない年になっても、みな菩薩みたいになって、嫁がせるのに大問題になっている。その原因は、あの菩薩のせいではないか。そこで、あの菩薩を削ったら、その問題は解決されるのではないかと、満場一致で決定し、弥勒の腹を削り始めたそうです。そうしたら、そこから、全く思いがけないことに、血が出たそうです。

 それで、みなびっくりして、悔い改めたそうです。それで非常に慌てふためいて、原状どおりに修復しようとしたのですが、どうすることもできなかったのです。ただ、セメント(注:ここでは「石灰」の意味)を持ってきて貼っておく程度だったそうです。その後、長い年月がたったので、セメントを貼った部分だけが、風化作用によってすかすか穴が開いている状態になったそうですが、お父様が幼い時、よくそこに遊びに行かれ、そうなったものを御覧になったそうです。そのことは、その村では皆によく知られた事実だったのですが、その菩薩の名前が、「趙漢俊の弥勒」だったのです。

 現在でも、その弥勒菩薩がその場所にあるかどうかは分かりませんが、いつか南北統一がなされれば、最初にその場所に行って、それを見たいと考えています。私がそこに行って、それを早く見ることができるためには、皆さんの努力も必要ではないかと思いますが、いかがですか。


「真の母(韓鶴子女史)のまなざし」より