韓鶴子女史み言アーカイブ

韓鶴子女史が語られた至宝のメッセージ

「再臨主を迎える準備をせよ」と命じられた許ホビン氏 -洪順愛大母様の証(7)

 このように主は、御自分に関するみ言を解き明かしたのちに、許ホビン氏に「あなた方は今まで、鉄山の金聖道ハルモニを再臨主として信じてきたでしょう。しかし、再臨主は男性です。成長した主が今、密行勅使(隠密)のように隠れて働いておられるから、これから再臨主の服を作りなさい」と命令されたというのです。そして再臨主の服を作り始めました。

 初めの3年間は自分たちの親族だけで作ったのですが、彼らは多くの精誠を込めたといいます。そうするうちにある日、許ホビン氏が一徳氏を「天の逆賊だ」と叱りました。それでも一徳氏は絶対に従順であったそうです。「はい、はい」と言いながら、言われるままに従い、朝に夕に、主とその奥様に敬礼を捧げました。

 そして、あらゆる訓練をさせられたというのです。のちに一徳氏は、私たちに会い、「私が訓練を受ける時、死ぬほどでした」と話されました。「ある時は、真冬に麻の服を着せられて、『乞食の生活をしなさい』と追い出されました。お金は一銭もくれず、食べ物もくれないで、出ていって乞食の生活をしろと言ったのです。それでも『はい』と言って出掛けました。冬至は韓国も寒いですが、平壌はもっと寒いのです。それでも絶対に従順に出ていきました」と言うのです。そのように麻の服を着て出掛けても、凍え死ななかったそうです。1週間たつと人を送ってきて、「それぐらいでいいから、帰ってきなさい」と言ったので帰ってきたというのです。

 またある時は、雨がしとしと降る梅雨時なのに、「子供たちを連れて出ていきなさい」と言われたそうです。一徳氏のところには、子供たちがほとんど死んでしまい、男の子とその妹だけが残っていましたが、「その子供たちはみんなサタンの子供だから、見たくない。すぐに連れて出ていきなさい」と言われたのです。「私は今、主に仕えて暮らしているので、あなたたちのような逆賊がいてはならない」と言うのです。それでも「はい」と言って、子供たちの手を引いて、雨がしとしと降る中、平壌市内を歩き回り、乞食の生活をしました。1週間くらいすると人を送ってきて、「帰ってきなさい」と言われたので、帰ってきたそうです。とにかく彼は絶対従順でした。「出ていけ」と言われれば出ていくし、「帰れ」と言われれば帰り、「敬礼しなさい」と言われれば敬礼し、「立ちなさい」と言われれば立ち、「座りなさい」と言われれば座りました。「私は妻を主に捧げたので、絶対に服従します」と言って、従いました。

 再臨主の服を準備するにおいても、すべて韓国産の物で準備せよというのでした。再臨主は韓国に来られたので、冠をかぶり、パジ(ズボン)、チョゴリ(上着)を着られるから、すべて韓国式に準備せよというのです。それで、韓国産の絹と木綿だけで服を作りました。絹を一匹(2反)買ってきて、まずそれを洗います。それも数字に合わせて、12回ずつ洗い、12回手入れをしました。そのあとで服を作るのですが、パジは何寸何分と、このように寸法まで教えられて、そのとおりにしたというのです。

 「パジ、チョゴリ、チョッキ、ツルマキ(外とう)を作り、この世で一国の王様が持っている物よりもっと立派に作りなさい」と言われ、自分のあらん限りの精誠を尽くしたといいます。自分たちの財産はいくらもないので、実家のお母さんのところに行って感動させて、何代も前から受け継いできた実家の財産を売ってきたりもしたのです。

 ある日、実家のお父さんが反対しようとしました。そのためお母さんは、「私たちは天の大きなみ旨のために再臨主の服を準備しているのに、この夫が反対をするとは、何ということでしょう」と思いながら黙祷していました。後日、お父さんは最後の発悪を行い、大声でわめきながら外に飛び出して、そのまま世を去ったそうです。

 反対していた実家のお父さんが亡くなったので、それまで売ることができなかった物まですべて売って、再臨主の服を作るために捧げてしまいました。すると村中で、「あの家はもはや滅びてしまった。何代も受け継いできた物まで売ってしまったので滅びた」と悪口を言いました。それでも、「私たちは人には分からない、言葉で言えない大きな喜びをもっているので、あなたたちがいくら悪口を言っても平気だ」と言ったのです。このように親族だけで3年間、服を作っていきました。

 服を作り続けるだけではなく、ある時には「宴会をしなさい」と言われました。そして宴会をするにも、米を12回研いで、12回流しなさいというのです。それで、そのとおり精誠を込めて12回ずつコメを研ぎました。精米所にも行かず、家で白米の餅ともち米の餅の2種類を作り、おぜんを用意して敬礼を捧げました。


「真の母(韓鶴子女史)のまなざし」より