韓鶴子女史み言アーカイブ

韓鶴子女史が語られた至宝のメッセージ

絶対的信仰で啓示に従う -洪順愛大母様の証(8)

 腹中教時代には祈祷がありませんでした。敬礼だけ捧げたのです。朝、昼、夕方には公式的に敬礼を捧げ、その心に祈祷したい思いがわけば、また敬礼を捧げました。

 時々、一徳氏に役事が下りました。ある時は、「主にきょうの夕方、食事を差し上げなければならないので、出掛けていって商売をしてお金をつくってきなさい」という命令が下ったのです。一徳氏はまた「はい」と言って出掛けました。そう答えて平壌市内に出てみたものの、途方にくれてしまいました。元金があれば商売できるのですが、お金が一銭もなかったからです。仕方なくぐるぐる歩き回っていると、自分の友達がはっと思い出され、行ってその友達に事情を話し、いくらかをもらったそうです。

 それでスプーンと箸を買って道端に置き、「きょうの夕方、主に夕食を作ってさしあげなければならないので、どうしても売って利益を上げなければならない」と思いながら立っていました。しばらくすると、東西南北、四方から人々が集まってきて、大したことのないスプーンと箸なのに、よく買ってくれたのです。一瞬にしてそのスプーンと箸を全部売ってしまいました。売ってから計算してみると、元手の倍になっており、それをもって主のために夕食の準備をしたのです。そういうこともありました。

 許ホビン氏は、主は肉体をもっては現れませんが、密行勅使(隠密)のように霊的にいつも訪ねてこられるので、あまりにも畏れ多く、感謝して主に、「この恩恵にどのように報いればよいのか分かりません。考えれば考えるほど、感慨無量なばかりです」と言いました。

 すると、「あなたが最も愛して大切にしていた物で服を作りなさい」と言われたのです。その時、許ホビン氏には、本当に大切にしていた毛糸の襟巻きがあり、その襟巻きをほどいてチョッキを編んで捧げました。それだけでは満足しないので、ふさふさときれいに伸ばした美しい自分の髪を1本ずつ抜いて、その毛糸と一緒に混ぜてチョッキを編んだのです。それでも満足せず、麻糸を紡いで髪の毛と一緒に混ぜて編みました。麻は一度も紡いだことがなかったのですが、やってみようと思ったら、良くできたというのです。それでも不足な思いがしてどうすることもできず、常にもっと捧げたいという気持ちで、その心情は言葉で言い表せないほどでした。

 ある時は、許ホビン氏が実家の母親に命じて、「お金が足りないので、故郷に帰ってお金を借りてきなさい」と言うのでした。当時は解放後で、ソ連の軍人たちが来ていた時です。バスや汽車に乗るにも、30人なら30人、40人なら40人というように彼らが制限しているので、絶対にそれ以上は乗れない時でした。

 許氏の母親は、西平壌停留所に行ってみたのですが、既に人々がいっぱいで、切符を買うことができませんでした。そこで黙祷しました。「主のために故郷に行ってお金をつくってこなければならないのですが、人がこのようにいっぱいいるので、どうしたらいいでしょうか」。そう祈って立っていると、上下に白いパジ、チョゴリを着た壮健な人がさっと現れたのです。その時は共産治下なので、みんな紳士服を着ることができず、作業服を着ていたために、労働者のようでした。しかし、その方は白いパジ、チョゴリを着ておられたのです。

 それは夢ではなく、現実のことでした。目を開けて祈祷したので、夢ではなく現実のように現れたのです。その方は、「あなたは切符を買おうとしているのだろう?」と聞きました。「はい」と答えると、「私が買ってきてあげよう」と言うのです。「それではお金を受け取ってください」と言うと、「いいえ、私が買ってきてあげます」と言いました。そして大勢の人たちが立っているところをかき分けて入っていかれたので、人々が1人、2人と避けていったそうです。

 許ホビン氏であればよく見えたでしょうが、その母親は年を取っていたのでよく見えず、「はあ、不思議だ。誰だろう」と思いながら、気が抜けたようにぼんやり見つめるばかりだったと言います。その方は、駅の事務所にすっと入っていかれると、切符を買って、「さあ、持っていきなさい」と言いながら、渡してくれたのです。ぼんやり立っていて、とっさのうちに受け取り、あいさつをしようと頭を上げてみると、あっという間に消えていたということです。

 その時、「ああ、主だったのだ。白いパジ、チョゴリを着ておられたのを見ると、主だったのだな」という思いがして、「私はどうしてこんなに鈍いのか」と自責の念にかられたと言います。しかしその当時は、許ホビン氏が「主は、いつも私のそばに座っておられる。だから、あなた方は私のそばに座っておられる主を迎え、信じなさい」と言っていたので、自ら主を探し求めようとは考えてもみなかった時でした。許ホビン氏が命令すれば、そのまま従順に従ったので、その許氏の母親もそうだったのです。だから切符まではっきりと買ってくださったのに、あいさつもできなかったのです。


「真の母(韓鶴子女史)のまなざし」より