韓鶴子女史み言アーカイブ

韓鶴子女史が語られた至宝のメッセージ

許ホビン氏への啓示 -洪順愛大母様の証(5)

 その時、平壌に許ホビン氏と、その夫の李一徳(リ・イルドク)氏という方がおられましたが、その人たちは、私よりは年下でした。

 李一徳氏のことを話せば、かつてはよく人を殴る平壌でも名の通ったやくざでした。体格が非常に良い人でした。しかし、信仰をもってからは全く従順でした。男性として、これほどまでに立派な人はいませんでした。

 その人たちも鉄山に出入りしていました。そうして新しい主から恩恵を多く受け、大きな役事をしたりしました。時には、とんでもないこともよくしたのです。ある時は、「天から『家を売り払って、新しい主のところに行って住め』という指示が下った」と言いながら、家族をみんな置いて、鉄山に来ました。すると新しい主は、「そういうことではない。新しい主の時代は、家庭をすべて破綻させて信じる時代ではない。家庭をそのまま守りながら、アダムとエバが犯した原罪は淫乱罪であるということと、殺してはならない主を殺したということを悟り、これから韓国がエデンの園になる、ということだけを知って闘っていかなければならない。家庭を捨てて信じれば、すべての人たちに不徳となるから、そうしてはならない」と言われました。

 許氏李氏の婦はいつも鉄山に来て、新しい主からみ言を聞いたりしましたが、一度、許ホビン氏に大きな啓示が下りました。許ホビン氏が祈祷する中で、「40日間、集会をしなさい」という啓示を受けたのです。それも「創世記によれば、神様は果物だけを食べなさいと言われたのであって、いつ肉食や火食(火を通した食事)をしなさいと言われたのか。だから朝、昼、夕、一食にりんご1個ずつ、1日3個だけ食べて、40日間、力を込めて祈祷しなさい」と言うのでした。

 そこで、60人余りの平壌の信徒たちが1日にりんごを3個ずつ食べて、40日間祈祷しました。その時の祈祷は、他でもなく、人々が丸くなって座り、目を閉じて「新しい主の役事!」とだけ叫ぶのでした。それは、「新しい主が役事してくださり、私の根本的な淫乱罪とイエス様を殺した殺人罪を脱がしてください」という意味だったのです。私は目を閉じて静かに、「新しい主の役事、新しい主の役事」と言いました。人々は最初は小さく、「新しい主の役事、新しい主の役事」と言っていたのですが、そのうちにだんだん声が大きくなっていきました。最後には天地が振動するほど、すべての人々が手に手を取って輪になり、立って叫ぶのでした。家が揺れ動くようでした。村の人たちは何事が起こったのかと思い、みんな入ってきて眺めたりしました。

 そうして(日本植民地からの)解放になるころ、許ホビン氏に役事が起こりました。「今はすべての人々が蕩減されて、新しい命を得て、復活する時なので、家に行って寝ている家族まで起こして、連れてきなさい」と言うのでした。「家に帰れない人たちは、そのまま『役事』と叫びなさい」と言うのです。ある人は尿意を催すのも分からずにいて、下着をぬらしたまま「役事」と叫んでいました。

 60人余りがぐるりと輪になって、体を動かしながら、「役事! 役事!」と言うのですから、どれほどすごかったでしょうか。村の人々は、「夜通し何か大事が起こって、平壌が揺れ動くかのようだった」と言っていました。家に子供たちを連れに行った人たちは、転んで鼻にけがをしたことも知らず、走っていって、子供たちをみんな連れてきました。「急いで参与しなければならない。そうでないと大変なことになる」と言いながらです。そのように大きな役事もありました。

 許ホビン氏夫婦は、新しい主によってエデンの園が復帰されると思っていましたが、その新しい主が亡くなられたので、「今となっては私たちが頑張ろう」と言いながら、共に熱心に祈祷し始めました。亡くなられた新しい主の写真を壁に掲げて、朝夕に敬礼を捧げながら祈祷しました。ところが、彼らは非常に愛情の深い夫婦で、夫婦間の愛の行為を断って聖別することがとても難しかったといいます。

 ある日、祈祷を捧げようとすると、性欲が最高に起こってきました。すると一徳氏が台所に行って、包丁を持ってきて、「我々お互いに、どちらでも先に発情した人のものを切ろう」と言ったというのです。彼らは以前にも何度か聖別を決心したのですが、失敗していました。新しい主まで亡くなったので、「どんなことがあっても私たちが成功しなければならない。こうであってなるものか」と言いながら、包丁まで持ってきたので、初めて成功し、サタンが身じろぎもできなかったというのです。そうして勝利した一徳氏は、そのまま従順に、祈祷に深く入り始めたそうです。

 聖主教時代、平壌の信徒たちは、一徳氏の家に集まりました。その家には部屋が二つあったのですが、一つは聖主教の礼拝堂として使い、もう一つは生活する部屋として使っていました。ですから礼拝堂に出てきて祈祷しやすかったのです。彼らは、約3カ月間祈祷しました。今、統一教会に来て考えてみると、当時も、すべてのことが数理的になっていたようです。


「真の母(韓鶴子女史)のまなざし」より