韓鶴子女史み言アーカイブ

韓鶴子女史が語られた至宝のメッセージ

純粋だった百日間の伝道旅行 -洪順愛大母様の証(1)

「夢に描いた主にお会いして」

 この証は、1986年発行の『証言』第3集に掲載された内容を翻訳したものです。洪順愛(ホン・スネ)大母様は、1914年陰暦2月22日に誕生され、神様の啓示によって1934年に韓承雲先生と結婚されました。徹底した信仰生活をされ、神様の役事により、一人娘を出産されましたが、そのお嬢様が正に真のお母様、韓鶴子女史であられます。

 一貫して至誠を尽くされる生涯を送られ、1989年11月3日、享年75歳で昇華(他界)されました。

 私(洪順愛)の故郷は現在の北朝鮮平安北道定州です。定州で生まれ、平安南道安州に行ってそこで長年暮らしました。私の母は、私を身ごもる前からイエス様を信じ始めたといいます。母がイエス様を信じて私を生んだので、私の名前は教会の牧師様がつけてくださいました。そのようにして19歳まで長老派教会の信仰の中で育ちました。


純粋だった百日間の伝道旅行

 19歳になった年に、李龍道(イ・ヨンド)牧師が新しい役事(信仰復興運動)を起こし始めたのですが、私も3日間、恵みを受けました。また同時に、李龍道牧師と同じ復興師であった黄國柱(ファン・ククチュ)氏が、人々に多くの恩恵を与えました。黄國柱氏の一派は50人余りでしたが、間島(現在の中国吉林省東部の延辺朝鮮族自治州辺り)から始まって新しい役事を起こしながら、韓半島を巡回していました。

 彼らは小麦粉を水に溶かして飲みながら、復興集会の時には激しく祈祷し、霊的な役事を起こしました。黄國柱氏には4歳になる息子がいましたが、人々がその息子をおぶって歩きました。また黄國柱氏には黄ウンジャという妹がいたのですが、彼女もやはり自分の兄と同じように聖霊の火を多く受けたのです。私は李龍道牧師から3日間恵みを受け、黄國柱氏の妹からも大きな感銘を受けました。

 それで黄國柱氏の妹と彼の父親、伝道隊員、そして私の6人が伝道に出発しました。安州を出て、新義州まで歩きながら伝道し、「悔い改めよ! 天国が近づいた!」と叫びました。イエス様が語られた、そのとおりにしたのです。私を含む伝道隊員たちは、そのように叫び、黄國柱氏の妹が「きょうの夕方、某所で集会をしますので、忙しいこととは思いますが、出掛けてきてください!」と叫びました。

 その夜は3~400人が礼拝堂に集まりました。そうすると16歳になるその娘が、昔アハシュエロス王(クセルクセス1世)がエステルを選んだ歴史(エステル記2・7~18)を説教し、王妃となったエステルが自分の命を懸けて自分の民族を救った史実を語りました。その時、刑事たちが「民族思想をもって説教するのか」と探りに来ていたのですが、娘が素晴らしい説教をするので彼らも感銘を受け、何も言えずに、ただ「なるほど、神の業である」ということだけを言い残して、帰りました。神でなければ、そんなことはできないというのです。

 その当時は民族思想を話せば、直ちに捕まる時代でした。ところがこの娘の話は、純然たる民族思想だったのです。イスラエルの民が大臣ハマンの謀略によって全滅しそうになった時、王妃エステルが3日間断食をして、自分の命を懸けて王に告げ、イスラエルの民を救ったことを説教する時には、人々は身じろぐこともできないほどでした。日本人たちも来て説教を聞いていましたが、彼らも感心するほど、その娘は霊的で、聖霊の火に満ちて説教をしたのです。

 ところがその時は、李龍道牧師と黄國柱氏を、メソジスト教会と長老派教会が葬り去ろうとしていた時でした。それで、彼らの集会を、ある所では受け入れても、ある所では受け入れませんでした。

 しかし、一行は歩き続けました。このように昼夜10里ずつ歩いたので、言うに言えないほど足がはれ上がりました。行かなければならないのですが、足が言うことをきいてくれませんでした。仕方なく松葉杖をつくこともありました。歩いていく途中、座ろうとしても到底座ることができず、立とうとしても到底立つことができないほどだったのです。しかし、新しい福音を伝えようと出発したのだから最後まで行かなければならないと思い、新義州まで行きました。

 新義州に着いた時、あるハルモニが鉄山で神の大きな役事をしているという話を聞きました。私は、「私たちより恵みが大きいかもしれないから、行って恩恵を受けましょう」と言いました。しかし同行する人たちは、「私たちも恩恵を受けたものがあるから、それはこの次にして、今は伝道している途中だから、ほかの所へ行こう」と言いました。

 それで、新義州を回って、价州に行きましたが、そこからさらに江界まで行きました。
 江界に到着すると、ちょうど100日になりました。江界から国境を越えて、満州(現中国東北部)に行って伝道しようとしました。初めから満州で死のうと心に決めていたのです。ところが、天から「みんな別れ別れになって故郷に帰れ」という啓示が下りました。それで故郷に帰って来たのです。


「真の母(韓鶴子女史)のまなざし」より