韓鶴子女史み言アーカイブ

韓鶴子女史が語られた至宝のメッセージ

苦難と栄光の座

1977年5月3日、御聖婚17周年記念日に、ニューヨーク、ベルベディアで語られた真のお母様(韓鶴子女史)の証

私が生まれる前後の状況

 お父様(文鮮明先生)はきょう、皆さんに私(韓鶴子)自身の証と18回目の聖婚記念日を迎えた感想を述べなさいとおっしゃいましたが、もし皆さんが3度の食事よりもっと証を聞きたいというのであれば、一日中でも話をしてあげましょう。


 先週の日曜日にベルベディア(ニューヨーク郊外にある国際研修院)でお父様の説教を聞いた人は、真の父母をこの地に迎えるために、何か特別な天的、摂理的出来事が誰も知らないうちに内的に起きたということを認識したことでしょう。当時韓国には、聖書とイエス様を信じさえすれば天国に行けると、単純、かつ盲目的に信じている形式化されたキリスト教団とは違った、特別な霊的教団が数多くありました。


 それらの教団は再臨主を迎える道を準備し、主の花嫁(再臨主の配偶者)を探し出すために、神様から啓示を受けることを唯一の目的として存在していました。


 これが私が生まれる前後の宗教的状況であり、私はそのような状況のもとに、ある特別な霊的家庭の中で生まれました。私は常に神様との霊的交流を通して、主の再臨と新時代について、主が再臨される日には何が明かされるかについて啓示を受けていました。


 私がきょう、その当時のことを考え、悲しみにひたるのは、私の母(洪順愛・大母様)が属していたその教団(腹中教)が、到底語ることのできない、実に信じられない、耐え難い苦難を通過しなければならなかった日々が思い出されるからです。彼らは常に、神の啓示を受けて過ごしました。そして蕩減(神の前に犯した罪を贖うこと)路程を通して主の道を直くするために、実に信じ難い苦難の道を通過しなければならなかったのです。そしてその中の多くの人が、あまりにも不運な事情の中で過ごさなければならず、ある人は監獄の中で死んでいきました。彼らは神様に選ばれ召された人々として、献身的に神様に侍りながら、いつの日かメシヤにまみえるという唯一の希望にすべてを託し、あらゆる苦難を乗り越えていきました。


 彼らは再臨主を迎えるために、すべてのものを準備しました。例えば、スプーンから衣服に至るまで、一切を準備したのです。神様の息子をメシヤとして送られる神様御自身の計画について、詳しく明かされた啓示に従って準備しました。霊能者たちは、服のサイズまで知っているほど、霊的交感を通して大変詳しい啓示を受けていました。


 そのようにして、口では言い尽くせない苦難の中で主の日を待っていた彼らは、不運にもその日を見ることができず、一人、また一人と亡くなっていきました。その間、その使命は3代にわたって引き継がれていき、彼らの啓示の最後の頂点として私が生まれたのです。

初めて先生にお会いして

 私が生まれたころ、神様がそのみ子(再臨主)を地上に送られるための計画を明らかにした啓示を受ける、その使命を引き継いできた最後の霊能者がいました。その女性霊能者は、私が6歳にもならない時に、「この方こそ天の新婦になられるでしょう」と予言しました。その女性霊能者はその時、6歳にもならない幼い少女が天の新婦になるべく運命づけられているという啓示を常に受けていました。


 当時、韓国の情勢は非常に厳しく、事実上、どんな人も神様やキリストヘの信仰を持ち続けることは不可能でした。御存じのように、当時、韓国は日本帝国主義の占領下にあったからです。私はその時、北部(現在の北朝鮮)にいたのですが、やはり日本帝国主義支配下にあり、特にその地域で、日本総督府は教会活動を激しく弾圧していました。したがって、誰でも信仰を持ち続けることは事実上不可能なことでした。


 私は平安南道の安州で生まれました。そこは韓国の38度線以北にあり、先生のお生まれになった定州がある平安北道からそれほど遠くない所で、お父様と誕生日を同じくして生まれました。しかし私が故郷にいた間、そういうことは知る由もなく、もちろん先生にお会いすることもありませんでした。


 当時、神様によって予定され召命下にあった教団は、主に北部に広まっていましたが、その北の中心である平壌は、新時代の聖都“エルサレム”になるであろうという予言や啓示が下りていました。


 とにかくその地域は、キリスト教の勢力が非常に強い所でした。私は北では先生にお目にかかることができず、北から南に渡ってきたのちに、ソウルで初めてお目にかかりました。それは私がちょうど13歳の時で、正に小学校を終えたばかりでしたから、今の仁進(次女)と同じ年でした。当時は、母親と共に入教してしばらくしかたっていない時であり、それまで多くの苦難の道を歩んできたために、未来に対する確信を持つこともできませんでした。特に1960年に何が起こるのか、知る由もありませんでした。


 初めて先生にお会いした時、先生は私を御覧になった瞬間、目を閉じて瞑想されたあとに心の中でささやくかのようにおっしゃいました。「名前は何というのか」と尋ねられたので、「はい、私は韓鶴子と申します」と答えました。すると「おお神よ、あなたは韓鶴子というこんなに素晴らしい女性をこの韓国に送ってくださいました。感謝いたします」と言われたのです。先生はその瞬間に瞑想され、ほとんど独り言のように言われたのですが、私にはそのように聞こえました。


 その時は、統一教会の教祖であられる先生が、私の未来に関して特別な啓示を受けておられるかのような感じを受け、多少不思議に思われました。そのころ私は韓国の北東部にある春川に住んでおり、先生はソウルの教会本部におられたために、春川とソウルという距離をおいて遠く離れていました。私は先生と出会ってのち、教会に通いながら中学を卒業し、高校に入学しました。


 きょう私たちが記念している聖婚式が挙行されたのは、1960年4月11日(陰暦3月16日)でした。聖婚日の1カ月前に、先生が夢に現れ、神様からの特別な啓示を受けました。「その日が近づいたので、準備しなさい」と、啓示が下りたのです。その時から、いわば天が求婚をしたというより、天の訓令が下されました。訓令があった時、私は完全に自我を離れた立場に置かれました。私はその時、天の摂理でなければ、そのような大きなことを判断することはできないと思ったので、無私になる以外にありませんでした。そして祈祷せざるを得ませんでした。


 「今まで私はみ意のままに生きてまいりました。今、神様のみ意(こころ)が何であったとしても、神様の摂理の目的がどのようなものであったとしても、私はあなたの僕(しもべ)として、どんなことでも命じられるままに従います」


 啓示に対して私の心を応答してみせました。それは、私が数え年18歳の時の春2月ごろでした。私は完全に無私の立場に立って準備していましたから、その事情など分析したくはありませんでした。神様のみ意のままに、全面的に身を捧げることをひたすら願っていました。


 当時の私は、性格がおとなしいほうで、平安と静けさの中で読書や音楽を好む人として学校内でも知られていました。そして、かなり知的な女性としても知られていました。あまり感情的でもなく、あまり激しくもなく、常に理性的で、初めて会った人には、むしろ少し冷たい感じさえ与えたでしょう。


 私のその当時の生活は、ほとんど修道女のようなものでした。男性と行動を共にすることは一切避けていましたし、まるで温室の中に咲く一輪の花のように、完全に外の環境から自分自身を隔離していました。今になってそれが、いつか主にまみえ、主の新婦になる者として聖別をするための天の準備であったということが分かりましたが、当時の私には何も分かりませんでした。そして私の本来の性格も外向的ではなく、いつも消極的で、この世から離れて自分自身の世界を楽しむほうでした。ですから男性に対しては、ほとんど完全に無視するかのように行動し、周囲にいる青年や男性を自分のほうから先に見たこともありませんでした。男性を見るだけでも何かきまりが悪く、純粋性を失ったようにさえ感じたからです。


 外からふと見るときには、お父様がどのようなお方であるかを知っているので、皆さんは一様に、そして単純に、私がとても幸福で、すべての面において完全な人に違いないと思われるでしょう。「あなたは神様がそのように創造され、もともと完全な姿として生まれたので、御自分は何の努力もする必要はなく、ただその位置に選ばれるようになったお方なのだ」と考えるかもしれません。そして「全天宙の母であり、お父様に出会って幸福な家庭をもっており、生を楽しんでいる」というのが、私に対する人々の一般的な見解でしょう。


 しかしそれに反して、お父様がその位置に立たれるために苦難と十字架の道を歩まれる限り、私も当然私なりに、信じられないほどの、耐えることができないほどの難しい十字架を背負ったのでした。もちろん私も、最初から完全な人間として出発したのではなく、完成まで行かなければならないのです。その到達しなければならない基準はあまりにも高く、時にはゴールまで行くのは本当に不可能なのではないか、という思いさえありました。その使命を果たし、神様の期待にこたえるためには、非常に難しい試練と、苦難と、絶対的な信仰が必要でした。私はそのような立場にいたのです。

苦難の記憶と勝利感による平安

 過ぎし日のこのような事情と、私が歩んできた路程について振り返ってみるとき、私は涙を流さずにはいられません。なぜならば、これについて語ろうとすれば、苦難と試練の記憶のすべてが再び生々しく蘇ってくるので、私にはそれを語ることがとても辛いのです。今朝、私が悲しそうに見えるかもしれませんが、それはそのような理由からです。


 私が歩んできた道は、考えるだけでも耐え難い苦難の連続でした。神様は選ばれたお父様に試練を与えたと同じように、私にも何度も試練を与えられました。そしてサタンも、先生とイエス様を試練したと同じように、私にもやはり試練をしました。メシヤが通過されたと同じような過酷でひどい試練を、このか弱い女性が通過したのですから、本当に皆さんには信じられないことでしょう。


 そしてすべてのことは、歴史の過程の中に秘して隠されてきました。皆さんは原理を知っているので、蕩減の関係から見るとき、私が聖婚記念日を迎えた今日に至るまで、どれほど難しい道を歩んできたかを想像することができるでしょう。


 1960年に聖婚式が挙行され、私は今、天宙的な使命を帯びておられる偉大な先生と結婚した女性であるわけですが、お父様のその天宙的使命をそばで見るならば、普通の人間にはそのような使命を果たすのは、考えることすら不可能なことです。


 私は温室の中の一輪の花のように成長してきました。平和な周囲の雰囲気の中の温室で、砂漠に咲く花のようであると、私自身感じてきました。砂漠のような所が私の暮らしていた環境でしたから、行く先々に荒波が荒れ狂って押し寄せてくるように感じました。私の周囲は、一寸先も見えないほどに、多くの誘惑と試練と、あらゆる苦難が渦巻く難しい現実的、霊的な状況だったからです。私は正に荒海に浮かぶ小舟のようでした。


 一方、その当時は、私を訪ねてこられる神様の恩恵を、最も感じた時でもありました。私が苦痛の中にいる時でも、神様は御自身を現して啓示を与え、導いてくださいました。そのような直接的な導きがない時でも、私を愛し、守ってくださろうとする周囲の人々を通して、絶えることなく導きと日々の啓示を受けたのです。そのためその当時は、かくも難しい試練と忍耐と苦難の時であったにもかかわらず、同時に、この時こそ最も美しく、神様の恩恵に満ちた、正に神様が共にいてくださることを実感できた時でもありました。このようにして、完成に向かって苦悶してきた成長期間が終わり、今や天が願っておられる基準に到達した私が、その当時を振り返ってみるとき、その苦難に満ちた記憶のすべては喜びに変わりました。


 私はお父様といつでも深い話を交わし、交流することができました。言い換えれば、お父様と私の間には、尽きない話題と限りない理解があり、無限なる信頼に満たされた対話がありました。お父様とそんなに多くを語らなくても、深くお互いの事情を理解することができました。なぜならば、お父様が通過してこられた事情と、私が歩んできた道が、神秘なまでに、あまりにもよく似ていたからです。


 お父様とは共通のひとつの目的を深く理解し、そのために不屈の信仰ですべてのことを忍耐し、すべての苦難と闘って完成基準に到達し、もはやサタンが一切侵入できない基準まで至り得た、という勝利感があります。お父様と私がお互いに向かい合う時、お互いが感じる勝利感によって、私は限りない慰めを受け、平安を得ることができました。

地獄を通過してこそ堅固に立てる

 最後に、皆さんに一言語りたいことがあります。私は私自身の体験を通して、神様について、神様がどのようにそのみ旨を成就されるかについて多くのことを知りました。私の人生において、正に天国と地獄をすべて通過してきたのですが、そのどちらも、神様が期待される完全に成熟した人格を形成するために必要なものであったということを知るようになりました。


 もし私が天国の喜びのみを享受してきたならば、天国の生活をそんなに深く味わい、感謝することができなかったでしょう。私は地獄の一番底までも通過し、その苦い味も味わいました。「これ以上、このように難しい道を行き続ける力は私にはありません。絶対に不可能です。神様! なぜ私にこのような道を行けと言われるのですか」と尋ねることも数限りなくありました。私に必要なことは、真に倦むことのない不屈の信仰と決意と忍耐であり、それが今日の私自身をつくり上げたといえるでしょう。


 もう一つ付け加えたいことは、皆さんが天国に行く道において、天国的な面だけを期待してはならないということです。地獄のような面も当然、予期しなければならないのです。地獄の底の底、監獄を通過することも当然予期しなければなりません。


 そしてこれこそ、神様の恩恵を感じ得る最も貴い部分であるといえます。これを通過することによって、皆さんはさらに堅固に立って、強くなることができるし、円満で総合的な人格、神的人格を成熟させることができ、天国をさらに深く味わうことができるでしょう。そのような体験のすべてが、いつか皆さんの誇りとなるでしょう。勝利と忍耐の記録こそ、いつの日か皆さんの誇りとなるでしょう。


 この2、3日の間、先生は釣りの競争をさせられましたが、その時、皆さんはふと心の中で、「なぜお父様は、こんな無意味なことを私たちにさせるのだろう。こんな天候の悪い日に水の中に入ろうという者がどこにいるだろうか。そんなことはやる必要もなく、川の水はこんなに深いのに、死ぬかもしれない」と思ったことでしょう。


 誰しも、一瞬でも、ふとこういう思いがよぎったことがあるに違いありません。なぜ、お父様は何か気が狂ったかのように、このようなことをされるのでしょうか。なぜこのようなことをしなければならないのでしょうか。しかし皆さんはその時、「私はそういうことはしなくてもいいでしょう? 私にはできません」と言わないでください。


 このような瞬間こそ、皆さんが早急に決定したり、考えてはならない時です。そういう時であればあるほど、その試練を通過し、越えていくことが喜びをもたらしてくれるのです。そして、なぜお父様は皆さんに、泥だらけの川の水の中に入れと言われるのでしょうか。そのような霊的試練がある時こそ、そういう思いがどんな人にも、正常な人は誰でも、自然な本能的思いとして心の中をよぎるものです。


 その時に、どのようにしてその思いを克服することができるか、それを喜びに転換することができるか、ということが問題です。


 私の前半生は、毎日毎日が、正に皆さんが経験した釣りの競争に比喩することができるものだったといえます。


 私が語りたいことは、以上です。ですから、皆さんが常に忍耐強く、不屈の状態で働いてくださればと思います。何事も早急に決定したり考えたりせず、直ちに反発しないようにしなければなりません。そうすれば、どんな難しい試練も、喜びに一変することでしょう。それこそ、いつの日にか誇りとなるのです。


 私がけさ流した涙には、2つの意味があります。ひとつは悲しみの涙ですが、単に悲しみの涙ではなく、喜びの涙でもあることを知ってほしいのです。勝利したその喜び、そして、このようにお父様と共にいられる喜びの涙であることを。実際に、そのような二重の意味をもった涙だったのです。


 そしてこれからは、ただ喜びの涙だけを流したいと思います。ですから、どうかこれからは、私の過去に関しては尋ねないでください。ただ勝利的な未来の大きな理想についてのみ話を交わしましょう。このように皆さんにお願いしたいのです。


 未来に来たるべき大いなる日のために、何度でも喜びの涙を流しながら喜びましょう。

 

「真の母のまなざし」より