韓鶴子女史み言アーカイブ

韓鶴子女史が語られた至宝のメッセージ

理想世界の主役となる女性②

相続権・同居権・同参権

 親愛なる「世界平和女性連合」の皆様! 「女は弱し、されど母は強し」という言葉があります。女性自体はか弱い者ですが、もしも女性が、母として愛の主体的立場に立ったり、また妻や娘として愛の中心的役割を果たそうとする時には、女性はこの上なく強くなるものです。なぜならば、女性が母、妻、娘として愛の主体的立場を取り、相対のために100%与え尽くした時、その空白を神様の愛が埋め尽くしてくださるからです。

 神様の愛の能力が発動し始めるのです。だからこそ女性であったとしても神様に似て、熱い愛の主体的立場を取るようになれば、その愛の偉大な力は家庭を生かし、国を生かし、世界を生かす驚くべき力として現れます。

 神様は、このように人間のための愛の主体的な立場にいらっしゃって、与えてもまた与えようとなさる本性が、その作用を続けることにより、永存することができるのです。ゆえに、真の愛の道には永生の論理が成立するのです。神様と真の愛の同伴者として造られた人間が、神様の願いどおりに成熟し、絶対不変の真の愛を神様から相続していたならば、私たちの人間世界には、根本的な統一の歴史が展開され、戦争や血を流すような悲惨な歴史はなかったことでしょう。

 真の愛を中心として、心と体が一つになれば、皆様は神様御自身の愛の同伴者となり、永遠の対象になれます。そればかりでなく、神様の永遠なる愛を相続する者となります。愛の属性には相続権があり、同居権があり、また同参権があります。愛する夫が大統領であれば、たとえその妻が小学校すら出ていなくても、愛する夫婦の関係になれば、夫のものは妻のものとなり、昼夜いつでも共に同居できることはもちろん、同参する権限もあるのです。

 愛にはこのように、相続権、同居権、同参権という偉大なる3大属性があるので、神様の絶対的愛、不変なる真の愛と一致した立場に立つようになれば、神様がいらっしゃる所に自分自身も加担することができ、いつでも同居し、同参することのできる権限をもつようになります。

体は心の共鳴体

 神様の悲痛なる心情を体恤(注:血肉の一部となるほどまでに実感するの意)した者は、道を歩きながらも突如として立ち止まり、慟哭する、そのような体恤の世界があるのです。堕落したこの世の中でも、母の愛は、もし、子供が見知らぬ地で不慮の事故に遭えば、それが母の直感で分かるような場合がたくさんあります。寝ていながらもその名前を呼び、叫んで目覚めるのです。もし、神様のような本質的な真の愛、1000年、1万年も「ため」に生き、さらにまた「ため」に生きようという、そのような真の愛を、自分自身の心と体に、100%吸収することのできる内容を持つようになれば、心には神様の真の愛の根が芽生え、神様が感じた全てのことに通じ、体は自動的にそこに共鳴するのです。心の世界の真の愛を中心として、共鳴体になるように創造されたのが体です。心と体の統一世界を成すためには、神様の本質的な真の愛を回復すべき課題が残っていることを、知らなければなりません。

 このような真の愛に共鳴する論理を中心として見たとき、私たち人間がそこに一体化し、共同一体圏に入れば、神様の愛は自分自身の愛となり、神様の生命が私の生命となり、神様の血統が私自身の血統となり、神様の所有である被造世界が、私の被造世界であるということができるのです。したがって、天下を抱く父と母の心をもち、天国に入籍するようになっているのです。

犠牲により愛の等級が高まる

 それでは愛が先ですか、生命が先ですか。それは愛が先であるというのです。なぜなら人間の生命は愛によって、愛の理想を中心として受胎したものなので、人間の生命の本質は正に愛なのです。それゆえに、愛を本質として生まれた生命は、「ために生きる」のが天理であり、人間は生まれた時から相手のために生まれたのです。

 自分は自分自身のためにのみ生まれたとか、全てが自分だけのためのみに存在しなければならないとするならば、決して愛の概念は成立できません。相手のためにしてあげ、他のために犠牲になろうとするところから、愛は誘発され始めるのです。家庭のために犠牲になる人は、家庭の愛を誘発させることができ、同志のために犠牲になる人は、同志の愛を誘発することができるのです。他のために犠牲になれば、全てを失うようですが、それは全く正反対です。むしろ愛の主体となり、全ての主人になるだけでなく、さらに高い次元に飛躍するようになります。

 愛というのは、より大きなもののために犠牲になればなるほど、その愛の等級が高まっていくのが原理です。より大きなもののために犠牲になれば、それに吸収されていくのではなく、却って、その大きなものの中心の場に立って、新しい次元を迎えるようになるのです。

 キリスト教が“復活の宗教”になったのも、「他のために犠牲になりなさい」と教えているからです。罪のないイエス様は死の十字架に向かう立場にあっても、「わが父よ、わたしの思いのままにではなく、みこころのままにして下さい」と祈祷しながら、自分を槍で刺すローマ兵に対してさえも、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と、むしろ神様に懇願したのです。

 これが正に、神様のように「ため」に生き、犠牲になって生きる生涯の標本であり、復活の歴史をつくり出す起源になり、キリスト教の核心的伝統思想になったのです。他のために命までも捧げ、犠牲になる時に、さらに高い次元の命を得るようになっているのです。


韓鶴子総裁講演集」より