韓鶴子女史み言アーカイブ

韓鶴子女史が語られた至宝のメッセージ

お父様の代身者となろう(1)


 1984年7月21日、お父様(文鮮明先生)がダンベリー刑務所に発たれた翌日、ニューヨーク郊外のイースト・ガーデンで語られたみ言

刑務所の面会室でお会いしたお父様

 出発される最後の瞬間まで、幹部や食口(教会員)たち全体を集めて語られたお父様のみ言を、皆さんはすべて聞かれたと思います。

 昨日、発たれる直前に、御自分が起居されていた部屋の中を見回しながら、過去を回想するかのように、手あかのついたもの一つ一つを、真心を込めてなでてから出てこられました。お父様は淡々とした姿勢を見せてくださいましたが、妻である私(韓鶴子女史)は平然としていようと努めたのですけれども、そうできませんでした。私がお父様をお慰めしなければならなかったのですが、却って私がお父様に慰められたのです。そのようにお父様を送るしかなかった私自身の無力さを、限りなく切なく思いました。

 今日は早くから、子供たちと一緒にお父様に面会に行きました。お父様に会って2時間ほど経つと、そこの看守の責任者が来て、「12時を過ぎたら出ていってください」と言い残していきました。ちょうどその時、お父様にどうしてもお昼を召し上がっていただかなければならないと思って、「サンドイッチを差し入れてもよろしいですか」と尋ねました。すると「そうしなさい」ということでした。孝進(長男)にサンドイッチを買ってきてもらい、お父様に差し上げました。

 そうすると、今日一日はお父様がなさることが何もありませんでした。そこであまり早く帰るのも良くないと思い、3人の子供は先に帰したのです。そこの人たちがお父様に話があるということで、「席を外してください」と言われました。「隅のほうで待っていてもよろしいですか」と孝進を通して尋ねると、「そうしなさい」ということでした。

 私はお父様のそばを離れたくないので、どんどんドリンクを買って飲んだり、電話をかけるために小銭に替えたりしながら、時間を引き延ばしました。そのように、わざと時間を長引かせたのです。

 お父様はサンドイッチを召し上がりながらも「(ともに収監されていた)神山(威氏)が1人で長く待っているだろうに、これを私1人で食べようとしても、のどを通らない」と神山氏のことを考えられました。それで私は「神山さんは、明日面会がありますから、心配なさらずに召し上がってください」と申し上げました。

 そうしている間にケース・マネージャーが来たというので、その人に会いました。入所した人たちは誰もが仕事をしなければならないようです。お父様も仕事をしなければならないのですが、工場のような所に行くようになれば、このように面会に来て奪われる時間を補充勤務しなければならないというのです。また、そこに行くことを願う人が20人以上待機しているので、お父様がそこの勤務を願って配属されることになれば、順番を待っている人が不平を言うようになりますから、却ってそこでは良くないだろうという話でした。

 もし工場に勤務するようになれば、面会時間を多くもつことはできないだろうというのです。ですから、その人が考えるには、かえって建物周辺のごみを拾う掃除夫や、庭師のような仕事がいいだろうということでした。そこでは、8時間仕事をすればいいことになっているので、短い時間に受け持った仕事をやってしまえる仕事にしたらどうかと尋ねるのです。受け持った仕事を早く終わらせて、自由時間を多く持つほうがよいのではないかと、いろいろな面で便宜を図ろうと努力してくださいました。親切で有り難い人だと思いました。

 その人たちは、お父様が来られる前にもいろいろと考えて、「普通の人とは違うと思うし、よく仕えなければならない」と思っているように見えました。それでも彼らの中にはお父様に対して偏見をもった人がいるかもしれませんから、心配になります。


「真の母(韓鶴子女史)のまなざし」より